岳行ノート
吉田山  1450m/長野県高森市

2007.9.22(土) 曇り時々晴れ
       25℃
往路:2時間35分 (小休止含)
復路:1時間55分


 あれだけまとわり付いた夏の暑さが去りゆく今日この頃。夏と秋のミックスジュースもその味を日に日に秋へ移している季節です。

 そんな日に長野山を計画しました。私のETC割引高速利用限界は、100kmだと飯田ICまで。その付近を探して未踏のこの山に決めました。

 途中、キャンプ場もあり単独なので登りやすそう。

 教科書は、山と渓谷社刊「名古屋周辺の山200」です。
駐車場周辺図


登山道はキノコ色の季節
(ウラグロニガイグチ)







キャンプ場

吉田山




※色線は実測ではありません。
■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号)」



 8年間で16万2980km、CR-Vの横顔が好きだった。家族同然に親しみを持ちどこへ行くときもいつも一緒。

 もういない。新車がCR-Vより安く、思わぬ高価査定で買替ました。家族同然と思ってたけど売っぱらい‥

 言うこととやることが違う私。(新車は3コマ目)
 


 高速を試し運転。飯田インターで降り下道を走れば、旅先のコスモスが迎えてくれます。が、雲が山を覆う。


 大島川沿いを走り、堂所森林公園を抜けると左に駐車地があります。奥に続く不動滝への道は工事中でした。
(9:35)


 車を置き、少し降ると山側に道標があります。植林の間を歩くと舗装道路に出て左へ登りました。


 橋にキャンプ場への道標です。右の地道では、来年1月末まで崩落地を工事しています。


 流れに仮設丸太橋。渡るとブルトーザーの跡で登山道がわかりません。左折しジグザグ登ります。

間もなく道に藪が覆いかぶさります。ナビで現在地を確認。
1本尾根が違うようです。いずれ合流するのでこのまま行くことにしました。
急登、急登でシャツは、ビショ濡れ。


 藪は平気、棘はきつい。何かが来て、まとわり付く。♪また夏が右からやってきた。僕はそれを左に受け流す〜     


 45分間、苦闘すると別尾根の道と合流しました。何のことは無い、そちらは遊歩道のようないい道です。

 その後は溝道の広葉樹、山腹道の松林、唐松林と樹相の変化を楽しみ緩やかに登ります。

  ここまでキノコは何種類も見ました。こんなにアカマツがあるなら松茸もあるのかな?


 キャンプ場の展望は樹間に伊那谷が少しだけ。「吉田山展望台→」の道標があり、『どこかな?』先に進みます。
(11:15)


 展望台は見つからず、この道標まで来ました。「あと5分」の手書き文字が加えてあります。少しの急登です。

山頂への尾根道では、荒々しい巨樹たちに迎えられます。


広い山頂です。眺望は、わずかに樹間からのみですが、居心地がとてもいい。青空ランチします。
(12:10)〜(12:45)


 下山は余裕が出てきました。背の高いシラカバ、カラマツなどを堪能しつつプロムナードを歩きます。

キャンプ場に戻り、「吉田山展望台→」の道標近くを見渡しました。
草むらに「南アルプス眺望案内」の鉄看板が埋もれてます。
(13:15)

 木々が伸びガイドブックの写真のような展望はもう望めません。
私のように3m以上の身長があると上の景色が見えます。

左:ミズヒキ(水引)      中:クリタケ          右:タチフウロ(立風露)


 往きのイバラ道へは降りず、遊歩道を降りてきて謎が解けました。往きにこの道を通れなかったわけを‥


 朝、右の丸太橋を渡り写真右へ進みました。正解は橋から少し直進(写真左)し、青のブルがいる道でした。

駐車地着(14:40)

伊那谷の山裾を走れば、赤くないリンゴと稲刈り風景が横切ります。
最近、紅葉ツアーの新聞チラシも多くなり、気持ちも高揚する。
あと数週でいよいよキラメキの山です。


東海岳行
       父の一番長い夜     

『おい起きろ!水が来た』

 父が大声で叫びながら家族一人一人の身体を揺する。その夜は台風で停電、玄関隣の6畳間で家族5人が寝ていた。小学生の僕と次男は、寝ぼけ眼でぼーっと起き上がる。一年生の末っ子はどうしても目を覚まさない。

 『玄関を見ろ!』と父に促され母と僕と次男は、横のたたきを覗きこむ。ロウソクの明かりに信じられない光景が目に入った。外から猛烈な勢いの水が、戸の隙間から流れ込んできている。

 『どうして?』と考えた瞬間、畳が浮き上がり不安定になった。水は早い。『隣の部屋の押入れに上がれ!』言いながら父は、末っ子を布団ごと丸め、部屋の押入れに投げ上げた。



 そこは荷物で一杯で全員は入れない。その時、ロウソクの火が消え真っ暗。恐怖に襲われる。浮かんだ畳は、ブカブカと沈み僕は倒れそうになる。慌てて壁に手を着き、伝い歩きで隣室へ逃げる。闇の中を手探りだ。必死で押入れのふすまを開ける

 床上90cmの棚に僕、次男と母の順で上がった。そこは寝ていた布団の置き場でかなり空間がある。ここまで3mの距離、1分ほどの時間だったけどみんな異常事態に動転していた。

 子供でも生死がかかっていることはわかる。三人で中腰になっていると父がきた。『テレビも一緒に上げる』我が家の最高の財産だ。すぐ押入れの天板を動かし『天井に上がるぞ』と言う。



 最初に父が上がり私たちを引っぱる。天井裏なんて初めてだ。怖いなんて言ってられない。母が『心臓があぶつ、ちょっと待って』と言いぐずぐずしている。『早くしろ!』と父に怒鳴られ引き上げられた。太い横柱に寝巻きのまま4人並んで座る。手触りで埃が、積もっているのがわかった。

 水はつい先ほどいた押入れの上の棚をもう越えている様子だ。水が今いる所まで来たことを考え、父が屋根を破ろうと拳骨で叩くが、歯が立たない。『いかん、置いてきたヒロキを見てくる』

 父は、押入れに降り、深く浸水した部屋から隣の部屋へ移っていった。かなづちなのに‥。息を殺し父の様子を伺う。長い時間が過ぎ『お〜い、大丈夫だ』 みんな安堵した。



 やがて轟然と渦巻いていた風がやんだ。台風の目に入ったことは後で知る。静寂が訪れ柱時計が時を打つ。どこからか『お〜い助けてくれ』と心細い声が聞こえる。父もその声に呼応する。『お〜い助けてくれ』僕たちも叫ぶ。『お〜い助けてくれ』誰も来ないことはわかっている。

 無事なことを訴えているだけ。末っ子以外、誰も眠ることなく朝を待つ。明るくなり海や川から来た水が、引き潮になり床下まで下がった。畳はグチャグチャで床下の基礎柱が見えている。その間を泳ぐ蛇にビックリ。水は床上170pまで来た跡があり、浸かった土壁はすべて落ちている。

 それなのに部屋戸のガラスが、一枚も割れてないのは不思議だった。外を見ると見渡す限りの湖の中に家が浮かんでいる。『学校行けないなあ。これからどうなる?』と考えた。台風一過、素晴らしい青空。お昼になると炊き出しのお握りが、電柱を束ねた即製いかだで運ばれてきた。



 ご飯を塩水で丸めただけのもので具は無い。空腹なので誰も文句は言わない。真っ黒の手で頬張った。当時、私たちは名古屋の南区に住んでいました。住宅は殆ど平屋だったので水が進入したとき、近くの2階家屋まで逃げようと外に出た家族がいました。

 激流の中、進退窮まり街路灯に一家で登ったのです。そこは全員を助けるほどの高さがありませんでした。我が家に水が来た瞬間、父の判断で私たちの生死が決まったのです。父の告別式で喪主の私は最後の挨拶で何か父のエピソードを伝えようと思いました。

 一番インパクトのあるこの出来事に決めます。話をする途中、涙が溢れてきました。父に大事なことを言っていないことに気付いたからです。親戚は、私の涙を見て食い入るように聞いています。私は振り返り父の遺影に語りかけました。



 『父さん、僕は伊勢湾台風のとき子供だった。今、話していて気付いた。あの日の感謝の言葉を何も言ってないことに‥父さん、あの夜、命懸けで家族を助けてくれてありがとう。本当に、本当に、ありがとう。もっと早く言わなければいけなかった。‥随分遅くなってしまいごめん。

 お陰で兄弟三人は仲良くやってるよ。返事をもう貰えないのが残念で寂しい』
今年、父は91歳で永眠しました。

2007.9.24/16:45