岳行ノート

        オダニヤマ
小谷山  495m/滋賀県長浜市

2015年7月11日(土)


堅固な小谷城

現在地から反時計回りに周回、右の尾根は遺構が続きます)


 2011年NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が放送されると小谷城跡に観光客が押し寄せました。そこで小谷山の登山は控えます。

 ドラマの主人公(ゴウ)は、浅井長政の三女で小谷城で生まれました。1573年8月の「小谷城の戦い」織田信長浅井長政の間の激戦です。

 もう観光客は多くはないでしょう。実は、12日前の6/29に小谷山を周回したのですが、誤って全画像を消去してしまいました。


 今回は小谷山パート2です。先回、出合った少年のことを描きたくて出かけました。周回にいい小谷城戦国歴史資料館駐車場から出発します。

 北陸道長浜インターで下り、県道510号線で北上、多くの幟が立つ道を奥に走り‥
<駐車場>
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大きい地図 [+]詳細図、[-]広域図



歴史資料館駐車場

追手道登山口

本丸

小谷山

排水池

歴史資料館駐車場


※赤線はGPS軌跡
●は主な分岐点

■この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得て同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである(承認番号 平17総使、第98号)」


江  南:午前7時50分発    曇り/26℃
駐車場:午前9時20分着    曇り時々晴れ/29℃
往:2時間35分(山頂まで、小休止含)
還:1時間15分(ランチタイム除く)
所要時間:3時50分


 小谷城戦国歴史資料館の登山者用駐車場に置車。奥に小谷山が堂々の佇まい。東に追手道(オッテミチ)登山口。
(9:35)


 登山道は樹林の斜面を登り、尾根道に出ます。林道に2度接すると望笙峠で一服してトラバースの道を行くと‥
林道終点です。そこの小谷城跡の絵図前で男の子が着替えをしていました。
お爺さんと二人で来て何と鎧を着ています。彼は小学5年生、驚くことにきっちっとした鎧は自作。
更に烏帽子をかぶり正装になり、私はお二人の写真を撮ってあげました。

少年ジュン君が日本百名城の本を見せてくれ、スタンプラリーしながら34城を巡ったそうです。
お爺さんが、嬉しそうに色々話してくれました。私が5年生の時は、ただのテレビっ子でした。
子供の頃、夢中になれるものが有るのは素敵だ。この奥は番所跡で登城者の検問所です。
(10:15)


 この出会いの写真を消してしまい残念無念。次はお茶屋跡、その名には似つかわない軍事施設がありました。
(10:20)

 しばらく遺構巡りです。進むと手前に馬洗池、奥の広場が御馬屋。馬小屋があったかは不明です。
 
 里から200m上りますので、偉い侍が徒歩で上がったとは思えません。次は道脇に‥
(10:25)
 首据石。敵に内通していた家臣を断首してここでさらしました。先に分岐があり、右へ折れ、山腹道を奥へ行くと‥
 浅井氏の重臣、本丸直下の赤尾氏屋敷跡。兵に攻められた浅井長政は、ここで1573年9月1日に自刃しました。享年29歳。(10:35)

 分岐に戻り、西の桜馬場へ行くと「江〜姫たちの戦国〜」の撮影写真が掲示されています。

 ここは展望の良い場所で長政と妻のお市琵琶湖を眺めるシーンが撮影されました。

折角の展望は霞んでいます。上に琵琶湖が広がります。中央右寄り小さな竹生島197m。
左端の虎御前山224mは、信長小谷城を攻めたときの拠点です。
右上が山本山324m、小谷の支城で山本山城がありました。『言いにくい』

 更に進み、12mの石垣の上の本丸跡に登ります。長政が居住していました。大広間跡が見えます。

 長さ85m、幅35mと山中にしてはとても広く。当時を想像した‥
(10:55)

 イラストです。要所要所にあり、イメージを描きながら遺構巡りします。

 浅井長政は、信長の妹・お市を正妻としたのになぜ信長に攻められた?

 本丸を降り、左へ回込むと深さ10m・幅15m・長さ40mの大堀切秀吉は急傾斜の清水谷を登り攻め込みました。

 右の本丸長政がいましたが、まず左の久政(長政の父)の京極丸を急襲。左右を分離させる秀吉の戦略です。
(11:00)


 攻め込まれた京極丸跡。広大な曲輪です。8月27日秀吉に攻められた久政は、奥の小丸で自刃しました。

小丸から指標で右へ回り込むと大石垣小谷城でもっとも壮大な石垣です。
高さ5mあり、自然石をそのまま積み上げた野面積みでしょうか。
戻って最奥にある標高400mの山王丸を過ぎると、遺構は一旦消え登山道を降ります。
(11:30)


 里に散らばっていた六つの寺院の出張所六坊跡を過ぎると清水谷分岐。直進して長い丸太階段を登ります。
(11:40)

 分岐から東尾根を歩く。暑さをしのぐ緑陰がありがたい。岩尾の標柱から東南展望が広がります。

 左端上に伊吹山1377mが見えるはずですが、雲の中。手前は小谷山を水源とする西池です。
 城跡を離れ、↓待望の小谷山495m三等三角点到着。小広場で展望はありません。写真奥を左に降ります。右へ行けば、右写真:最高点山頂。ここに初代浅井亮政が、大嶽城を築城しました。信長に攻められ落城しました。 
 浅井長政信長の妹・お市と結婚したのですが、朋友朝倉氏信長に攻められると義に基づき越前の朝倉氏を味方したのです。それで小谷城信長に攻められたのか。山頂近くに眺望があります。三角点のベンチでランチにしました。
(12:10)〜(12:30)


 三角点からは南の尾根を降ります。案内はありませんが、周りは整地された何かの跡が続きます。

 やがて福寿丸跡小谷城の戦いの1年前、朝倉氏浅井氏を加勢するために築いたと考えられます。
(13:00)

 15分降ると遺構山崎丸跡。さらに15分降りれば‥


 水道施設の排水池に出合いました。右から回り込み、舗装道を降れば清水神社の鳥居です。左折すれば‥
(13:30)

清水谷の入口、大手門。奥の小谷城戦国歴史資料館駐車場へ歩きます。
山城の遺構がよく整備されていました。信長が一度は攻めるのを断念した堅固な山城です。
そういえばあの少年、興奮していたなあ。愛車内は33度。『アイス食べなくちゃ』
(13:55)

 
東海岳行
  “ピンチ” 

 子供が幼い頃は、幾度かピンチに出合います。時には命に係わるピンチもあり、そのときの親は我が子を必死に守る。長男の私が5歳の頃、三男の弟は、やっと歩けるようになえりました。畳の上に落ちていた5円玉(右写真)を手に取り、すっと口に入れると、すぐ呼吸困難になり苦しむ。

 『かあちゃん!! たいへんだ』私が大声で叫ぶと台所から母が飛んできて『どうしたの』と聞く。『おかね、たべた』 母はすぐ弟に醤油を飲ませた。しかし事態は変わらない。弟は息が出来ないようで顔は真っ赤です。

 母は彼の両足をつかみ逆様にして上下に振りました。すると『ウゲッ』と口から5円玉が吐き出され、弟は救われたのです。その時の母の必死の形相は、今でも記憶に残ります。さて、ここから先、エグイ話なので嫌いな方は何卒読まないで下さい。



 テレビ「世界の果てまでいってQ!」で「お祭り男」として人気の宮川大輔が、オフの日、幼子の手を引き川に遊びに行ったときのエピソ−ドです。幼児でも安心して遊べる親水広場があり、チャプチャプしていると子どもが『運古したい』と訴えました。近くにトイレはありません。ピンチ!

 『あそこでしようか』『いや!』 子供は人がいる所でパンツを下ろすのが恥ずかしいようです。『運古でる』 仕方ありません、大輔はパンツの後ろからに手を入れ『ここにしなさい』と言いました。手の平にヌ〜っと柔らかく暖かいものが乗る。彼は思わず『ウエッ!』とえづきました。

 テレビならキラキラのモザイクが入るところ。彼はそーっと手を出して何食わぬ顔で川の流れでそれを処理し、手に残ったものは石になすって取ります。『ほんと、大変だった』血を分けた子だからできると言いました。



 我が家の赤ちゃんが、離乳食を始めます。スプーンで少し与えて様子を見る。しかし、腸が驚いたのか便秘になりました。我が子は、顔を真っ赤にしていきむのですが出ません。『ふぎゃー』 ひよこさんが心配そうに『どうしよう』と困った顔。

 私がお尻の穴を覗くと固まったものが見えます。赤ちゃんのものだといっても綺麗なものではないし、箸でほじくってみようかと考えましたが、万が一腸を傷を付けたら大変だ。『よし』と覚悟を決め、ひよこさんにお尻を広げてもらい私が小指の先でほじると硬いものは出口の所だけ。

 それを取ると『ほぎゃー』と大声で泣き、残りがスルスル排出。二人は『あ〜良かった』と安堵。血を分けた子だからできる行為です。そんなこと想い出も『お父さん、お母さんが、健やかに育てられたことに心から感謝します』なんて言う人が現れ、子どもは結婚して家を出ていきますよね。

2015.07.20(月)00:15