岳行ノート
獅子ヶ森729m〜巴山710m〜文殊山661m
愛知県新城市


2018年1月27日(土)


獅子の森の石組祠



 山友の2Q13さんから新城市公式HPに市内の登山マップがあることを教えていただきました。訪問すると全10コースが紹介され充実しています。

 今回、その中から未踏のコースを選びました。三つの低山を巡ります。駐車場として作手総合支所の駐車スペースが案内されていました。

 そこは今年1月、「作手総合支所・小学校・交流館」が、魅力的な街の景観づくりに貢献していると「愛知まちなみ建築賞」を受賞した所です。


 各々の山頂には、石組の祠・白鬚神社・古城跡があります。またコース途中には、合戦跡祠・戦死者の墓・古刹が残り、歴史を辿る山旅です。

 国道301号線の道の駅・つくで手作り村から北へ走り、4つ目の信号を左折します。

 教科書は、新城市公式HP「新城市登山マップ・獅子ヶ森・巴山・文殊山コース(pdfファイル)」です。
<駐車場>
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大きい地図


作手総合支所駐車場→作手中学校→石組祠→▲獅子ヶ森→林道出合は誤りでハイキングコース出合→
P707m→▲巴山→石堂ヶ根合戦跡祠→善福寺→▲文殊山作手総合支所駐車場

※赤線はGPS軌跡  ●は主な分岐点

■この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得て同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである(承認番号 平17総使、第98号)」


江  南:午前07時05分   晴/-3℃
駐車場:午前09時25分   晴/-2℃
標高差:(520m→729m)209m
往:2時間40分(巴山まで、小休止含、道探索30分含)
還:2時間45分(ランチタイム除く、道探索15分含)
所要時間:5時間25分




 作手村は、平成17年に新城市に合併しました。作手総合支所駐車場に置車。右方の国道301号線で北上します。

 なお残念ですが、受賞した小学校・交流館は写真左、総合支所は右に建ち、写ってません。マイナス気温はしびれる。
(9:40)

 国道沿いの作手中学校。写真中央ピークが、第一山獅子ヶ森です。校舎を過ぎたら左折します。

 300mほど歩き、最初の四差路を右折。道なりに3分行くと林道入口になります。 




 植林に囲まれた道は、最近降った雪が薄く覆う。先行する動物の足跡を追うとやがて分岐です。

 左は巴山(トモエヤマ)へ向かうハイキングコース。ここは右の林道を更に進みます。
(10:25)




 すると林道右に新城市の獅子ヶ森中継局が建っていました。右の1段高い樹林が山頂かと思い行ってみます。

 そこはTOP写真の石組祠があり、役行者が祀られています。山名板はありません。林道に戻り、先へ歩くとすぐに‥
(10:30)
 フェンスで囲まれた中電高里中継所に出合います。車はここまで来られます。木に赤テープが2箇所巻かれ、ここが山頂でしょう。↑ その下に小さな石祠(上右)。地形図にある二等三角点が見当たりません。地理院点の記では、中継所門から3m位北の所? 石祠の下? ネットでも写真はなく、三角点の謎です。
(10:40)

次の巴山へ行くには、ハイキングコース分岐まで戻るのですが、フェンス沿いに踏み跡を見つけました。
薮がないので歩行可能なので。方向を決め降ると5分程でハイキングコースの遊歩道に出合いました。
10分ほどで遊歩道終点となり、そこから尾根道を登ります。
(11:00)

 行く先に2009年10月の台風が残した爪痕、倒木地帯です。道は右に迂回します。

 笹が増えてくると10m四方の金網囲いがありました。ここは、左右どちらからでも回り込めます。




 やがて「町有林」標柱(右)がある標高点707m付近です。左の南方向にテープがあったので進みました。すると‥

 右方に登山道が、見えたので間違えたようです。正しい道を知りたく標柱へ戻り、右の西方向へ100m行くと登山道でした。
(11:30)

 その道は、「愛知の130山」で紹介された岡崎市の巴山ハイキングコースです。30分ロスしました。南下すると‥                     (12:00)

 広い林道に降り、左折。立て看には、「伐採作業中 進入禁止」。本日休工の張り紙は、裏にありました。


林道をしばらく歩くと白鬚神社の鳥居です。まだしめ縄が新しい。
付近に駐車場が有り、ここまで車で来られます。階段を登れば‥
(12:10)






 第二山巴山山頂。ここは豊川・矢作川・男川の分水嶺です。ここで富士山が見えたそうですが、今は木が育ちました。
(12:20)






 山頂は冷たい風で、少し先へ歩くと休憩広場に着きました。日だまりランチです。休憩後北へ行くと林道に出合います。
(12:30)〜(13:10)

薄い雪に覆われた舗装道を進むと展望が開けてきました。右の紅白鉄塔後ろが巴山です。
教科書には「御嶽山・恵那山方面を遠望」の記載があり、左の白い鉄塔上の雪山は、どちらかでしょう。
20分ほど林道を進むと「石塔ヶ坂古戦場→」の案内があり、登った突き当たりを右へ‥






 周辺を探しても何もありません。ピークを南西に少し外した所で発見。1573年、作手城主Vs武田方合戦跡の祠です。
(13:45)

 「合戦死者之墓 約300m先→」の案内で南東へ降ると斜面に墓碑がいくつもありました。

 そこには、この分岐が有り、第三山へは左道を降ります。                     (14:00)






 やがて登山道は小さな渡渉をして林道に乗りました。1km歩き、この「猪・鹿進入防止扉」を開閉し、左へ行きます。
(14:20)


地図を見て田園を歩くとやがて善福寺の立派な仁王門です。
飛鳥時代開山の古刹ですが、野火や戦火で消失しました。
由来書きから読み解くと現在のは江戸時代の物のようです。

鎮座する仁王尊は身の丈2.8m、鎌倉時代作と思われます。
左手が欠落し、かなり傷んでいます。鋭い眼球は水晶です。
113段の石段を登ると‥
(14:40)




 400年前建立された観音堂。ここから文珠山へ向かうのですが、写真左の庫裏横に道があるので進むと墓地。

 もう少し左の道で辿るとまた墓地の裏。結局、この観音堂左奥に城跡の道標がありました。15分ロスして登山道を行きます。
(14:15)

 登山道を10分ほど北上すると駐車場があり、その上が文殊山661m山頂です。観音堂には、文殊菩薩が安置されています。            (15:20)

 山頂は、城主奥平氏の砦城跡です。雰囲気のある物見櫓が建ちます。梯子で上ると本宮山作手高原が一望できました。





 山頂から北へ進むと驚きのブナの巨木。幹周り485cm、推定樹齢400年 2mくらい上から6本の幹に分かれています。

 コースで初めて見たブナ。多分、愛知で一番太いでしょう。直径1.5mはあります。




 時間が無いので教科書に載る「塞之神城跡」は、カット。登山道を降ると山頂駐車場から来た林道に合流します。
(15:35)

 ここからは舗装道をテクテク。やがて作手診療所に出合い右折すれば、まもなく駐車場です。
(15:45)

 
東海岳行
  “金次郎の謎” 

 私の小学校は、名古屋市南区です。校舎の中央前に90cm程の二宮金次郎(尊徳)の石像が建っていました。小柄であどけない顔、薪を背負い、本を手に持ち歩く姿です。先生の話しを少し覚えています。金治郎は貧しい農家に生まれ、一生懸命働き、こつこつ勉強し、世のためになる功績を残しました。

 学び舎にピッタリの像だと理解していました。その後、歴史を学んでいくと金次郎像について謎が生まれました。@貧しい農家でもに字が読めるの? A当時高価だった本をどうして持っているの? B農家出身なのに「二宮姓」がどうしてあるの? C像のポーズはどうして生まれたのでしょう。

 山友、野良人さんの地区にある集会所で「二宮金次郎を学ぶ」講座が行われることを聞きました。長年の謎を解くチャンスだと思い、野良人さんにお願いして参加させていただきました。講師の方は、尾張地区の小中学校で校長を歴任し退職された方で、平成21年には瑞宝双光章を叙勲されています。



 先生は小学校校長の時、運動場に遊びに来たお爺ちゃんがお孫さんに金次郎像を指さすのを校長室から見ました。その時、自分は児童に詳しく説明できないと気付きます。彼らが卒業するまでに二宮金次郎はどういった人かを話せるようになろうと決心されました。

 それから金次郎研究に打ち込んだそうです。金次郎は、江戸時代後期1787年(230年前)に小田原市で生まれました。少年の頃に両親を亡くし、親戚に預けられます。18才になると廃屋同然の自宅に独り住まいをし、独学で勉強を始めました。@の謎が解けました。

 以後、日記を欠かさず記載しそこに21才で初めて本を購入したと記されています。Aの謎が解けました。大変な苦労を重ね、23才で一家再興しました。24才で武家の中間として働き、賢い彼の仕事ぶりが認められ、武家の娘と結婚。生涯で600を超す村々を再興させました。ただ村人の指導は難しかったようです。



 武士からいじめられたり、邪魔されたり、悩みました。その中から生まれた哲学があります。それは、報徳訓として今も引き継がれています。その理念は、(1)誠実、(2)勤勉、(3)収支のバランスを取ること、(4)社会貢献をすることです。

 当時、米を量る一升枡は各地で大きさがバラバラでした。農民が損しないようそれを統一させたのは彼です。55歳で武士になり、名字帯刀を許され、69歳でなくなりました。大政奉還の12年前のことです。Bの謎が解けました。

 明治時代の修身の教科書は、第一に明治天皇、第二に二宮金次郎です。米軍が終戦近い頃、B29でばらまいたビラのイラストに彼は描かれています。米国の調査では、日本人が敬愛し誰でも知っている人物だったからです。私も使ったことがあるく1円札には、金次郎の肖像が描かれていました。(左上)



 豊田佐吉、松下幸之助、他の経営者も彼の熱烈な信奉者です。中国が日本の戦後の発展理由を調査したことが有り、二宮金次郎に行き着ぎ、故郷の小田原も訪ねています。さて何故あの姿の像なのか。

 明治に東京芸術大学の岡崎先生が尊徳像を美術展に出品しました。像の原作です。Cの謎が解けました。明治天皇がこの像を座右に愛蔵されました。(現在は明治神宮宝物殿にあります) 

 昭和10年頃から全国の小学校で尊徳像が建てられるようになりました。何と愛知県が全国1位の数です。大正13年、豊橋市立前芝小学校に建てられたセメント製で高さ110cm、学校に建つのものでは、日本最古です。→



 ←漁港に近い街なので背負うのは薪ではなく魚や貝を入れる魚籠(びく)。我が町の江南市では宮田小学校には、S11年に建てられた高さ90cmの岡山県備前焼製です。

 熱烈な講師の興味深い話しは、2時間を越えました。野良人さんの奥様に教えて頂いたのですが、実際に行った村の再興話しは、もっと面白いそうです。

 今秋、「地上の星/二宮金次郎伝」が映画化さて今秋公開されます。これは見に行かねばなりません。

 
2018.02.02(金)15:35