17   “定点写真


 皆様、あけましておめでとうございます。良いお正月をお過ごしになられたでしょうか。今年も東海岳行をよろしくお願い申し上げます。本年の始まりは大道草、昨年末のちょい問題作“沈黙の夫婦”完結編です。ひじょうに個人的な内容で恐縮ですが、お時間がございましたらご拝読ください。
 
 さて私とひよこさんは、初詣やご挨拶めぐりなどいつもの行事をこなしました。その中で我が家独自のものが一つあります。それが「定点写真」です。 




(77〜) 始まりは、お正月に公園で記念写真を撮ったことです。それは特に珍しいことではなく、そこで毎年撮ることになるとは思ってませんでした。最初の写真は、セルフタイマーのシャッターに間に合ってません。こんな風では、人生の幸福行き列車に間に合うのでしょうか?二人合わせて48歳、自分たちでしか通じない美男美女です。

 次の年、同じ場所で撮ろうと思いその時から定点写真を意識しました。おや?もうひよこさんのおなかが目立ちます。そして大変な難産の末、素晴らしい生命の誕生。旺盛な繁殖力のスタートです。おや、おや?またもやひよこさんのおなかが‥



(80〜) なんと年子で家族は一気に4人。当時のアルバムに「二つの宝」と書いたように自然に溢れてくる愛情を家族に注いだものです。とにかく小さな温もりが、私には新鮮で趣味は育児と言うぐらい子供が大好きでした。このころ江南団地に引越し、その思い出を道草「江戸東京博物館の涙」(松尾寺山編)にあらわしてます。



(83〜) 今でも、もう一度戻るならいつがいい?と問われれば、タイムマシンは、間違いなくこの頃にセットします。こんなに明るく元気な子は、世界中探してもどこにもいないと信じていた親ばかです。



(86〜) そして第三子が誕生して我が家の繁殖期は終わります。『ひよこさん命懸けのお努め、ご苦労様でした』いよいよ子育ては佳境に入り、我が家の輝かしい黄金時代です。狭い団地のいいところは家族の距離が近く、泣いたり笑ったり一体感満点でいつも親子が一緒だった。しかし子供は育つ。

 やがて上の子供たちも大きくなると、一緒の部屋というわけにはいかなくなります。一念発起して‥



(89〜) 今の家に引っ越したわけです。庭なし一戸建ての小さな家で、しがないサラリーマンの私に蟻地獄のようなローン返済が始まります。しかし子供たちの夢、団地では飼えなかった犬も我が家の一員となりました。

 子供が家に帰るとお母さんが待っているというのが、私の描いていた家庭の姿です。自分が鍵っ子だったからそうありたいと思っていました。ひよこさんもそれは同様でしたので以降、私の細腕繁盛記となります。日頃は贅沢できませんが、ただ夏休みだけは小旅行をしたものです。

 このころ二つの転機がありました。プライベートでは、長期ローンに耐えられる健康作りに水泳を始めたのです。最初は、自己流の平泳ぎで25mがやっとでした。



(92〜) もう一つは仕事で、会社の財産を利用した別事業を提案したのです。ヒラの意見でも取り入れてくれるいい会社ですが、言った者がやるということでその一員に呼ばれます。そこからが苦難の始まり、ゼロからやるわけですからほとんど転職、それは大変でした。

 このころから息子の心の変化が写真に見られます。揃って映らなくなりました。最初はお茶らけでしたが、自我の目覚めが始まったようです。



(95〜) 仕事は10年間くらい無我夢中、まさに身を削ってよく働いた時期です。働き盛りだからこそ耐えられたのですが、神経を使う仕事は頭痛もノンストップで身がもちません。そのため休日は、一人でプールに行き水泳でストレス解消していました。仕事で頭を使い、趣味で肉体を動かしていたわけです。

 やがて水泳チームに入り、少し泳げる様になるとマスターズ大会にも出場し、年10回ほど競泳を楽しんでいました。大きくなった子供たちのベクトルは、家族から友人へ向い、5人での家族旅行も途絶えました。それでもまだ幼い末っ娘は私に甘えてくれたので、その一日一日惜しんだものです。





(97〜) 子供が親よりも大きくなると反抗期になります。成長の証を試すようにその矢を母親に射り始める。だんだんその攻撃が目に余るようになり、母親では手に負えなくなります。私が帰宅すると半泣きのひよこさんからしかって欲しいと懇願されました。やれやれですが、私も子供のとき同じことしたので仕方ありません。

 私もまだ若く、充分その対処のためのパワーを持っていました。息子を呼び一応顛末を聞きだし、ふてくされ顔に言い聞かせます。
『よくそんなひどいことをお母さんに言えるな。お母さんをよく見ろ』

隣の台所でひよこさんは、息子から受けたショックでうなだれています。

 『お前がどんなひどいことを言ってもお母さんは明日の朝、お前の食事を作ってくれる。お前が学校に遅れないよう起こしてくれる。その後お前の部屋の掃除をし、お前の服を洗濯し、お前の布団を干し、お前の夕食や風呂の用意をしてくれる。病気になれば一生懸命看病してくれる。それは充分わかっているはずだ。

 お前にどんなにひどいことを言われても、お母さんはお前の小さい頃からしていたようにこれからもずーっとそうしてくれる。お前のどんな親友でもお前のためにそうしてくれる者は絶対いない。よく見ろお母さんを‥そこで悲しそうにしているのは、世界で一番お前のことを大切にしてくれるお母さんだ!


 途中から息子は泣きじゃくり『ごめんなさい、ごめんなさい』顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃでした。まあそんなことが×3人で何度かあるわけで、親としてやらなければいけないけど正直もう充分です。

※97年はセルフタイマーをミスし、家族全員の写真は撮れてませんでした。





(99〜) 子供が正月バイトをして初めて5人で撮れなくなりました。私は定点写真を強制しません。家族の移り変わりが現われることが良いと思ったからです。そして末っ娘が成長して親離れすると家族の会話も減り、それぞれが自分の部屋に入り一緒に食事もしません。団地のときと随分違う家庭状況になりました。

 子供が親離れしようと感じたとき、私はさっと子離れします。私自身の子供時代の体験からそうするわけです。しかしひよこさんは、未練絶ちがたく子供に反発を食らいながらしがみついていました。しかし、実はこれが沈黙の夫婦へのサインでした。私が子離れだけではなく、妻離れもしていたのです。

 あるとき、我が家のアルバムの中からこの定点写真を抜き出し、それだけの写真集として整理していました。多分、親離れした子供に対して心の整理をしたかったからだと思います。一枚づつ探して整え、改めて見直しました。すると突然、止めどなく涙が出て嗚咽したのです。子供のことで泣いたのではありません。

 ずーっと一緒に写っているひよこさんを見て泣いたのです。私と結婚して子を産み育て、夫の世話・家事に追われ、今幸せの場所にいるのでしょうか。私は今、彼女に何をしている?反抗期にしかった息子と同じようにひどいことをしている。

 その頃の私といえば、話しかけられても生返事。休日は水泳三昧で疲れ果て、帰って寝るか一人で映画のビデオを見るかのどちらか。ひよこさんは別の部屋で寝て、一人でテレビを見てる。旅行はもちろん、日帰りのお出かけすら、もう行かないようになっていたのです。

 沈黙の夫婦
‥。しかし、それでも彼女は私の日々の世話をし、水泳の準備、後片付けをしてくれている。定点写真の家族は一人づつ減っている。でも彼女だけは私の隣にけなげに座っている。始めの頃の写真と比べると余計に泣けてきます。あの頃は、きっと幸せの列車に乗っていたと思う。

 私は何という夫だ。私を信じ、期待して一緒になったはずなのに。このまま沈黙の夫婦で続いていくのなら‥彼女の人生は、何のための人生だったのか! 私だ、すべては私だ。

 その夜、布団の中で私は号泣しました。『すまない、すまない、本当にすまない』夜通し考え続け寝れません。そして朝になり、ひよこさんに一晩考えたことを私は話し心から謝りました。今までの自分勝手を詫び、その日から気持ちを改め、彼女を大事にすることを誓ったのです。

 数日後、テレビ番組で見たお千代保稲荷(オチョボイナリ)へ行こうと誘います。何処でもよかったのですが、ここは行ったことがなく丁度いい。二人で長い参道を歩き、二人でリサイクルの油揚げに笑い、二人でお参りをしました。帰りは参道の店で、買い食いやお土産を見つくろいます。

 そして駐車場に向かうとき私は彼女と手をつなぎました。子供が授かって以来のことです。ひよこさんも握り返す。それは決意と寛容が結ばれたしるしでした。



 2000年の年末にひよこさんの意見で、車をカローラからCR-Vに変えます。何事も私が決めていたので、今までそんなことはありえなかったことです。それがきっかけでアウトドアに目覚めます。私は水泳から遠ざかり、休日は二人で色々と出かけるようになりました。やがて鳩吹山登山で私たちの山開きとなったのです。



(01〜) 時代は21世紀。その初日の出を鳩吹山で向かえ、帰路ひよこさんは尻餅をつき尾てい骨にひびが入りました。翌日がこの撮影ですが、おけつが痛くベンチに座れません。左端写真で痛みを堪え、杖代わりのストックを両手で上げてます。なにせ定点写真は、我が家の重要行事でしたので。

 やがて春になり、ひよこさんが治ると山行のピッチが上がりました。経験を踏み鈴鹿も登るようになったのです。



(04〜) さて40代の頃は、定年になった人のことを気の毒に感じてました。50代に入り、少しずつ定年のことを考えます。怖いのはその時「やること」がないことです。登山やゴルフが好きでも毎日は出来ない。私はひとつあることを発見します。仕事では顧客第一主義とか、お取引先大事という企業ポリシーでやってきました。

 それは身に染み込んだことなので、それをアレンジした奥様第一主義もありじゃないかということです。子供を育てたこと、私の世話をしたことに感謝しなくてはなりません。これからは、奥様を大事にし、喜ばしてやることを考えましょう。そうすれば定年までに「やること」は、おのずから見えてくるでしょう。

 これからの人生をそうして過ごすことが、私の生きるしるしです。今ままでの仕事と同じように価値があることで、私にとってひよこさんは充分それに値する人だ。そうは言っても急なギアチェンジは出来ない。少しづつ自分に言い聞かせ実践をしていきます。完璧でなくとも慌てることはありません。

 このごろ、二人で旅行やコンサートに行くようになったのもそのためです。
満点パパではなかったけど、これで雨降って地が少しは固まった‥かな?



(07〜) 最後に子供たちへ

 時は正直で、写真はそれを隠してはくれません。あれだけの美男美女も歳を重ねるとこの通り。今年もこりずに私たちは公園に行きました。そして二人だけの定点写真を撮ったのです。もう子供たちがここに写ることはないでしょう。それぞれの正月があり、それぞれの家庭を大切にしてくれればいい。

 いつか、我が子たちはこの「家族の定点写真」を見るでしょう。伝えたいのは君たちの親が子供が去った後、どのように暮らしたかです。やがて君たちも沈黙の夫婦にならないとは言えない。そんなとき、この「家族の定点写真」を見てくれないかな。何か無くしたもの、忘れていたものが見つかるかもしれない。

 そして自分たちの小さな頃の写真を見れば、懐かしさが溢れるでしょう。いつも家族が一緒だったあの頃、賑やかで温かな日々が、きっと心に蘇ると思う。お母さんとお父さんは、君たちが大好きだった。冬も春も夏も秋もいつも二人で小さな温もりを一杯一杯抱きしめた。

 小さくて覚えてないかもしれないけど、写真に写った笑顔で私たちの愛を知って欲しい。「家族の定点写真」は我が家の愛の歴史。私たちの古びた時計が止まるまで定点写真は撮り続けます。




 と言ってもいつの日か私の時計が止まり、あちらの世界へ行く日が来るでしょう。そのころは制度も変わり、申請すればこちらの世界へ1年に一度5分間だけ戻ることができるかもしれません。そしたら私はお正月を選び、この公園に戻りひよこさんと二人で定点写真を撮ります。このアルバムを見ながらお喋りをしましょう。

 何十年も同じ道を歩んできたので話は尽きることはない。生きている時はどうでも良かったことが、お互い離れ離れになって始めて大切なことだと気がつくかも知れない。でも5分は短い。『また来年逢おうね』と約束して私はあちらの世界へ帰る。そうして毎年逢っていると私は歳を取らないが、ひよこさんは老けて行く。

 なんだかんと幾歳月、ひよこさんもあちらの世界へ来てくれるので制限時間もなくなりいくらでも話すことができます。そして子供たちが揃うのを楽しみに二人で暮らしましょう。

2008.01.06(日)15.50


「定点写真その後」