2008年11月29日(土) |
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羽鳥峰は、三重県側から釈迦ケ岳の帰路に立ち寄りました。この山は、朝明から林道歩きすればファミリーコースです。 滋賀県側からの場合、先週歩いた永源寺ダムよりさらに愛知川を東進し、支流の神崎川を遡ったところに登山口があります。 歩行5時間超で渡渉も何ケ所かあり、私には手ごわいコースです。リンクいただいてるイチマルさんが、ありがたくもルートの詳細をGPS軌跡でレポされています。 日没が一番早い時期ですが、水濡れで震え上がる前に行くことを決心しました。途中二子山(フタゴヤマ)にも寄ります。95%の道が初めてなので事前調査と準備は充分行います。 教科書は、中日新聞社刊「地図で歩く鈴鹿の山」です。参考書は「イチマル:山のアルバム」さんにお世話になりました。これが東近江市シリーズ第三章です。 |
駐車場周辺図 [−]:縮小 [+]:拡大 |
P ↓ 渡渉点 ↓ 分岐 ↓ 支谷取付 ↓ △二子山 ↓ 分岐 ↓ △羽鳥峰 ↓ ヒロ沢分岐 ↓ 分岐 ↓ P ※色線は実測ではありません。 ※緑線は林道 ■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号) |
江南:5時5分発 5℃/晴れ後曇り、ときどきどきどきはらはら |
往路:4時間10分(羽鳥峰まで、小休止含む) 復路:3時間35分 |
いつもより早めに家を出ました。杠葉尾(ユズリオ)の神崎橋手前を右折して林道に入ります。2ケ所の崩落地で驚かされるけど車は通れました。林道5分で |
登山口です。先着のなにわ・滋賀ナンバーと並んで駐車。階段を55段降り「山火事注意」看板で右折です。 (7:40) |
はっきりした山道を降れば、やがて川音が近づく。神崎川に出たら帰りのため、その場所を記憶しなければなりません。 (8:00) |
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ここでロング・スパッツを着用したり、渡渉地点を探せばあっという間に10分経過。これはいけません。意を決してここを‥ まず写真の右から突破し、左にもう一度渡る。少し右足に進水したようです。それくらいなら大丈夫。右岸をしばらく歩きます。 |
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巻き道に入って、また川に出ると2回ほど渡渉箇所が現れ泣きそうになる。さらに累々とおびただしい岩をぬって行きます。 やっと待望のワイヤーモッコに出合う。(写真右上の紐)ワイヤーの右岸固定場所近くに白滝谷への道がありました。 (9:00) |
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そしてすぐ白滝谷とヒロ沢の分岐です。帰りヒロ沢を辿り、ここへ戻れば◎。そして左へ白滝谷の沢音をお供に登ります。 (9:05) |
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道は沢から離れたり近づいたり、でもいい登山道‥大きな音がすると滝です。これが白滝かな?? (9:25) |
突然、ぺしゃんこの廃屋が現れます。ガイドブックを確認すると、二子山への取付口はこの先です。 (9:40) |
まず左岸から右岸へのこの渡渉点まで行きます。一旦来た道を戻り「すぐに現れる支谷が二子山の取付口で‥」とガイドブックにはあるけど‥ (9:45) |
『これだ!』谷は歩けそうにもない、けど右に踏み跡です。その道で行き詰れば、右尾根に進む踏み跡を登ります。尾根芯を外さないよう急登に耐えれば‥ (9:50) |
主尾根に出たら右へ、すぐ二子山山頂に到着しました。私製山名板は、835Mとの表示ですが地形図は822Mです。 (10:15) ガイドブックでは、ここが北峰になっています。そして少し西に行けば‥ |
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嬉しい大展望が広がり、西→北→東へと雄大な山並みを堪能。 左側一番高いピークが銚子ケ口、中央より右奥に黒尾山、右端の台地状が日本コバ。 その下に朝、走ってきた林道が山原を削っています。稜線がV字に凹んだ下に車が光っています。↓ 駐車地の写真に写っていた「なにわの四駆」です。帰ったら向こうからこちらを撮ってみましょう。 |
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東に目を転じると釈迦ケ岳(山頂は左ピークの後ろ)と右のピーク猫岳が懐かしい。 昨夜、イチマルさんのGPS軌跡から羽鳥峰へ行く尾根道で迷いそうな箇所を5ケ所入力しました。 ここでの時間のロスは、避けなければなりません。 |
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主尾根は、川のように小さく左右にくねっています。テープは少なく『これは悩みますなあ』という場所がいくつかありました。 このピンクのプラ杭も道しるべです。ここでちょっとした坂を降りる時、15cm径の幹に左手を軽く巻きました。するとボキッ! 根元から折れた幹が左耳を直撃し、その痛さで私は泣きそうになる。何とかしのぐ。 |
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ガイドブックで一般道到達前に表わされた「踏み跡は消え笹分け」は「踏み跡はあり笹枯れ」でした。 お陰で最後の苦戦はなく、あっさり羽鳥峰への登山道に出ます。この道はいつか来た道。右へ降れば‥ (11:40) |
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白い素肌の小山に登頂。下に朝明からの林道が見えます。 ちょうど山崩れ箇所を登山者が歩いているところです。 ↓ 岩陰でお湯を沸かし、ランチしてると4人の登山者が三重側から到着されました。 (11:50)〜(12:20) |
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帰りは、羽鳥峰峠からヒロ沢を降ります。すぐに小規模な羽鳥峰湿原を通過。 (12:25) |
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右岸沿いを進むようになり、小さな流れは、次第に広がっていきます。何度か簡単な渡渉があると‥ |
鮮烈な滝が下に見え、滝壷のエメラルドグリーンが大人びた美しさを誇っている。 |
やがて広い河原に出るとそこがヒロ沢出合でした。巻き道が見当たらず15mほど登って戻ると分岐点があります。行くべきは右上です。 (13:25) |
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それからは、落ち葉で隠れた道を探し、岩場を登降し、ロープに助けられ、壊れた木橋を渡ります。 時々現れる楽勝の道、でもその安堵は1分と続きません。試練が連続する。緊張して喉が渇く。 久しぶりに鈴鹿の本格巻き道で何度も泣きそうになる‥けど耐える。 |
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枯れ谷に出たらゴー音が響きます。下に降りると天河滝の上部でした。滝を見ようと巻き道を進むと降り口に「キケン」の表示。 今はチャレンジする余裕がありません。 (14:00) 巻き道を出発し1時間15分、息も絶え絶えになんとか朝の白滝谷とヒロ沢の分岐点に戻れました。 (14:40) |
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でもそこからは、またあの渡渉をこなさなければいけません。川に降りると砂地に私の足跡たち。このお迎えは嬉しい。 記憶がよみがり、最後の元気を振り絞りました。『さあ、渡るぞ』帰路なので多少濡れても大丈夫。 (15:30) |
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神崎川の枝についたテープも発見しました。気力で駐車場に続く道を登る。日没40分前に帰着、いや生還だ! (15:50) 場所を移動して写真を撮ります。右寄りのツインピークスが二子山です。右側の高い方からこの場所を見ていました。 今日は涙をこらえた。きっとこの山行は、体重を1キロ減少させ、その分タフネスを増加させた違いない‥かな? |
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東海岳行 |
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“歳末三角くじ” | |
子供の頃、今のようにコンビニやスーパーはなく母親は近くの食料品店で買い物をしていました。衣料品や暖房用品は、少し離れた街まで行きそこの商店街で調達したのです。我が家の周りには、徒歩30分圏内に3つの商店街がありました。12月になると、どこも競って「歳末大売出し」を催し買い物客に福引券を配ります。 それを10枚集めると1回くじが引けるのが通例でした。幸薄い我が家は当然くじ運も悪く、獲得賞品は「亀の子たわし」とか「ポリバケツ」くらいです。さて私が崖っぷちの高校三年受験生の時、次男は高校一年生でした。その冬、彼は生れて初めて冬休みにアルバイトをします。 毎日、出かけ暗くなってから帰ってくる。暮れも押し迫ったある日、弟が帰宅して私に話しかけてきました。『兄ちゃん、今な銀座商店街で学校の友達とアルバイトしている。福引の係だ。一等の電気洗濯機はもう当たって無いけれど、二等の布団セットがあと一組残っている。 福引はあさっての大晦日に終わるので、会長さんから二等の当りくじをその日まで残しておくように言われた。それで当りくじを福引箱の中に入れ、上蓋にはさんで下に落ちないようにした。兄ちゃん、最終日にくじ引きに来ない?‥このことは友達には内緒だ』 すごい情報!インサイダーだ。しかし、私は布団に1mmも興味がない。『母ちゃん。銀座商店街のくじある?』『ちょっと待って‥ああ一回分ならあるわ』『かあちゃん、布団セット欲しい?』『お客さん用に欲しいな、なんで?』うちにお客さんなんて来ないけど‥『このくじで当たるかも知れん』『どうせ、たわしだわ』 母にもらった福引券を持ち、大晦日の昼ごろ中学二年生の三男を自転車の後ろに乗せ福引会場に出かける。並んで順番を待ち、次男の隣にいる友達の同級生に福引券を10枚渡す。『一回引いてください』 私は箱に手を入れ、中をかき回した。弟が教えてくれた上蓋の角をまさぐると手前左‥確かな手触りが間違いない。それをひっぱり友達に三角くじを渡す。彼は破って開け‥びっくり仰天まなこで『大当り!二等です』と信じられない顔。隣の次男が無表情に鐘をカランカランと鳴らす。 周りのおばさんが『この兄ちゃん、一回で当てたわよ』と羨ましそうに言いました。並んでる人は、もう大した商品が残っていないことにがっかりしています。自転車に布団セットを乗せ、三男がそれを押さえて引き歩きで帰りました。家に着き『二等が当った』と母に布団袋を見せます。 『よ〜当たったなあ』破顔一笑で転がるほど大喜び。『ここにしまって』私が押入の上段へ、うやうやしく納めます。やがて次男が帰って来たので『母ちゃん、めちゃめちゃ喜んでたぞ』と話してやりました。してやったり顔の弟。 この事は母に内緒にすることに決めました。その後、客用なので家族がその布団を使うことはなかったのですが‥翌年、私が地方大学に入学し初めて帰省した時、母が黙ってその布団を敷いてくれたのです。 その時は、まさか7年後に母が他界することは誰も思っていませんでした。少し後ろめたいけど思えば大当りの三角くじは、兄弟三人が母に贈った最初で最後の親孝行です。今は、母に本当のことを話したくても話せません。もうあの優しさにも会えない。 |