2010年7月24日(土) 瀬音聞き トリアシショウマ 風を待つ |
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先回は山までのアプローチが長かったので今回は短か目ということで岐阜山を選びました。猛暑が続いているため緑陰の涼を呼ぶ沢コースにします。 この貝月山「長者平キャンプ場コース」は、過去に降雨退却・増水退却と2度とも山頂まで届きません。残念で日を改め「ふれあいの森コース」から登頂はしました。 三度目の正直、朝からうだるような暑さから逃れるようと駐車地のキャンプ場へ向かいます。単独です。 教科書は、風媒社刊「こんなに楽しい岐阜の山旅100コース 美濃(上)」です。 |
<駐車地> [-]広域図、[+]詳細図、ドラッグスクロールで移動 |
長者平キャンプ場P→長者岩→山犬の岩穴→少将の滝→三段滝→ヒフミ新道分岐→ ▲小貝月山→▲貝月山→ヒフミ新道分岐→物見岩→長者平キャンプ場P ※赤線はGPS軌跡 ■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号)」 |
江 南:午前6時15分発 28℃晴れ 駐車地:午前7時55分着 25℃晴れ |
往:3時間25分(まで以下、小休止含) 復:2時間30分 ◆所要時間:5時間55分 |
国道21号線岐大バイパスから揖斐川右岸堤防を走り、支流の粕川に移りその上流へ向かいます。 長者の里キャンプ場駐車場は、私の車1台だけです。標高600m25℃、避暑地の夏に足を運びます。 (8:10) |
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トイレ前の提出箱に登山届を入れ進むとコテージで一家族が朝飯の準備中。唯一の利用客でキャンプ場が侘しい。 誰もいないバンガロー・テントサイトを抜けると給水タンク先から登山道です。 |
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すぐに清流の流れを渡ります。ここが第一回目の渡渉ですが、ルートは何度も沢を渡るので数えて見ましょう。 (8:20) |
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この地には伝説「猿後家ばあさん」の足跡があり、このナラを乗せた「長者岩」の下に猿後家地蔵が祀られています。 (8:25) ■「無頼の大猿が里の長者に娘を嫁に欲しいという。娘は銀のかんざしと水かめを嫁入り道具に父に買ってもらった‥」 |
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「大猿は水かめを背負い、晴れ着にかんざしを付けた美しい娘を連れ山へ向かう。 娘は、この滝の淵に来ると猿の目を盗みかんざしを落とした。“かんざしを拾って!”と叫ぶ。 慌てた猿が、かめを背負ったまま飛び込むとかめに水が入り淵の底へ沈んだ」娘の作戦です。 渡渉を6回すると「少将淵の滝」の案内がありました。アルミ梯子で川へ降りてみます。 ここでのんびりマイナスイオンを浴びていたいのですが、まだ始まったばかりです。 以前ここでクマが見かけられたことがあります。クマスズを忘れたので手を打ち、歌いながら進みました。 (8:50) |
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『お!熱い中、ご苦労様です』 貝月山(カイヅキヤマ)の東向かいの鍋倉山にはヒルがいます。山を見ると花崗岩なのでここで出会うことは無いようです。 |
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沢沿いには窯跡がいくつも見受けられました。森は二次林ですが、トチノキだけは太い古木です。 | 沢山なったトチノミを採り、トチ餅を作って食べたのでしょうか。 |
渡渉を15回すると左に三段滝を見ます。これは二段目で全体は撮れません。滑滝や急落下と落ち方が違い変わった滝です。 上段横には「忍者の岩穴」があります。 (9:40) 「娘は里で暮らし猿後家と呼ばれた。男の子が生まれる(え、猿のハーフ?)。猿後家は知恵があり災難から村を救った。 彼女は老いると山へ捨てられた。しかし里で疫病がはやり、彼女の知恵を借りようと山へ訪ねると‥ |
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猿後家はアマゴと山芋を食べ若返り、三段の滝をかけ上る忍者になっていた。その教えで長者の里は救われる」忍者の必然性が良く分かりません。 | 至る所でガクアジサイに慰められました。いつか沢は狭くなり流れは一跨ぎ。飛び石、丸太端、ロープなど21回の渡渉を終え瀬音から離れます。 |
そしてこの丸太階段とロープからが急登の始まりです。沢沿い道から流れの少ない沢そのものをしばらく急登します。 (10:25) |
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足場の悪い道から細尾根になっても補助ロープ急登は続きました。イワカガミの葉が道の両側でツルツルしています。 ここが一番長く感じ‥ |
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明るい青空が頭上に広がると待望の東尾根に出ました。平成8年にできたヒフミ新道との合流点です。 北の揖斐高原スキー場から上がってきた道で貝月山1234mの標高に因んだ名です。 しかしブルトーザーで作られた幅広の尾根道は、沢道と違い緑陰がありません。 (10:55) |
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ピークを左に巻くとスキー板の道標。小貝月山頂上は2分の往復です。まもなく灌木でにっちもさっちも行かなくなる山頂でした。 (11:10) |
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先の茂みでガサッと音がして『キュー』と鳴き声。私が物まねで『きゅー』とやると『キュー』と返します。もう一度繰り返す‥ ウリ坊?バンビ?ひょっとして小熊だったら大変なので急ぎ足で抜けます。山頂が見えてきました。 |
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すると鞍部の道左に「江美の池」。10m以上の長さで意外と大き目。場所が場所だけに驚きです。蛙は見つけられません。 (11:25) |
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尾根の眺望が良くなり周囲の峰々が見渡せるようになりました。 ということは日陰が無くなり、夏の光線が容赦なく私を襲います。 Tシャツの水分は飽和限界でしぼり汁を日に当てれば何gか塩が採れるでしょう。ブナ門を潜り‥ |
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ようやく二等三角点山頂。ベンチでネエ様がお昼寝されてます。気が付かれ二人でベンチでランチ。 ヒフミ新道なら蛇はいないと思いそこを登ったそうです。江美の池は知らないようで教えてあげると先に下山されました。 すると横の岩から蛇がニュル!貝月山は標高1234.3m。あと20cm岩1個の高さで1234.5m‥今から何とかならんでしょうか。 (11:35)〜(12:20) |
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立派な展望台には四方の展望写真が取り付けられています。便利ですが掲載の乗鞍岳・御岳山・白山は今日は見えません。 代表写真は伊吹山1377mにしましょう。 |
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下山途中、三段滝手前で物見岩入口のプレートを見つけました。そこまで道が作られ10mほどの高さにロープで登ります。 猿後家の息子が登ったという謂れがあるそうですが、眺望は今一つです。 (13:30) |
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キャンプ場に近づくとテンションの高い声が駆け回っています。 朝は人気が無いのかと思っていました。『こんなに賑わうとは‥』 夏の思い出作りの若い家族がまぶしい。 今日一日を使いきり駐車場に辿りつけば、気温は34℃まで跳ね上がっています。 車内のペットボトルを飲めば体温と同じようなお茶。これでは熱は冷めません。 コンビニまで急ごう。『クーリッシュ・バニラ!』 (14:50) |
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東海岳行 |
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“東海道線物語” | |
子供の頃は名古屋の下町に住んでいましたが、誇らしく思っていたことがあります。家から150mの至近距離に東海道線、さらにその先、家から500mの距離に国道1号線が走っていました。日本の大動脈が2本も近くを通っていることは子供でも自慢の種です。 ところが親戚のおばさんが我が家に泊まりに来ると夜行列車のガタゴト音が耳につき眠れないと嘆きます。もちろん家族は慣れているので平気です。その頃東海道線は盛土の上に引かれたレールを走っていました。 ■小学校から帰ってくるとボロ布を手に持ち、みんなでその盛土で上から草滑りをしたものです。これが本当に楽しくて空が夕焼に染まるまで遊んでいました。やってる最中『カンカンカン』と警報機が鳴ると斜面で待機。 「つばめ」や「はと」の特急電車が走ると子供たちはその速さを眼で追います。時々、水しぶきが顔にかかり『あ〜涼しい』と眼を閉じる。後年分かったことですが、それは便器からまき散らされた小便でした。 ■忍者もののマンガが流行ったことがあります。十字手裏剣を作ろうと思った悪ガキがいました。私が家の中にいると外が大騒ぎです。何の騒ぎかと外へ出るとちょうど東海道線の方から運転手さんが悪ガキの首根っこを捕まえ歩いてきます。 その背後には踏切で停まったままの列車が見え、警報機は鳴りっぱなし。近所の人の話では、レールに釘を並べる子供を運転手が発見し急停車したそうです。五寸釘を列車の重みで平たくし十字手裏剣を作ろうとしたのでしょう。 次の日、小学校の朝礼で先生が強い口調で『列車妨害は絶対するな』と注意しました。列車を止めると損害賠償を請求される言われましたが、彼は子供なので払えません。半年後に一家はどこかへ引越していきました。 ■私の家の前は、道路を挟んで畑が広がっています。さらにその向こうに農業用水路、溜池がありました。そこに小広い埋立て地があります。その土地は誰の所有地なのかはわかりません。いつからか老夫婦が、そこに小屋を作って住み着いていました。子供たちは不気味がって近寄りません。 やがてその用水や溜池の埋立て工事が始まったのです。老夫婦が勝手に住んでいた土地もその新しく道路上にあります。何人もの人が、毎日のようにその小屋へやってきました。立ち退きを迫っているのだと大人たちは噂しています。ある日、警報機が鳴りっぱなしになったので列車の停車している踏切へ走りました。 踏み切りには老夫婦の身に着けていた物と思われる見覚えのあるボロ切れが散らばっています。レールになすりつけた様な肉片。見渡すと何十メートルにも散乱した‥私は目まいがしました。見てはいけないものを集まってきた大人や子供は見たのです。 それまでは彼らのことは誰も良く言いませんでしたが、こういう結果になると『可愛そうな最期だったなあ』と来た人はつぶやいていました。 ■東海道線では、晴れがましいことも起きます。お召し列車が通る時です。その時刻に合わせ小学校も早く終わります。沿線の住宅の人は総出、小学校の先生も日の丸の旗を手に持ち、線路前の道で並んでお待ちします。いつもの特急より速度を落とした列車が上り方向に見えると一斉に旗が振られました。 すると住民の並ぶ西側の車窓が開いていて、そこに陛下がご起立されています。一つ離れた窓に皇后様を見ることができました。あっという間に菊の御紋の列車は遠ざかります。子供は『どうしてこっち側にみんながいると分かるのかなあ』とか『東京からずーっと立っちぱなしなの?』と大人に尋ねます。 『そんなことわからん』と当然の答えが返るだけです。 ■やがて東海道新幹線が東京オリンピック直前の1964年10月に開通しました。今まで東京大阪間が6時間半かかっていたのが、わずか4時間に縮められ日帰りも可能となったのです。私はビートルズに夢中な夢多き高校生になっていました。実は新幹線も私の家から直線距離で200mです。 しばらくすると新幹線の至近距離に住んでいた小学校の同級生たちは、騒音公害で引っ越して行きました。ガタゴト走る音とは比べ物にならない刺激的な走行音に悩まされるとは、できるまで誰も思っていなかったのです。 |