2015年3月25日(水) 賤ヶ岳を降り山本山へ |
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湖北の山々は、高島トレイル等で幾座も登っています。しかしその入門とも言える余呉湖周辺の低山には、まだ足を入れていません。 特に賤ヶ岳から山本山の山稜は、琵琶湖の眺め、山々の展望、歴史の遺構と魅力タップリ。しかし、小さな山の連なりでも距離はあります。 南北に直線で10kmと歩きがい充分。そんな思いが届いたか、水曜会のジオンさんからこのコースのお誘いを頂きました。 賤ヶ岳から登り始めた方が、足には優しいそうです。そこで山本山近くの駐車地、朝日小学校横の駐車場に集合し、余呉駅方面へ走ります。 ワカサギ釣りで有名な余呉湖、その東岸を南下します。9名のパーティです。 |
<駐車場> ドラッグスクロールで移動 大きい地図 [+]詳細図、[-]広域図 |
※赤線はGPS軌跡 ●は主な分岐点 ■この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得て同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである(承認番号 平17総使、第98号)」 |
江 南:午前6時00分発 曇り/1℃ 駐車場:午前8時35分着 曇り/4℃ |
往:1時間50分(賤ヶ岳山頂まで、小休止含) 還:3時間40分(ランチタイム除く) 所要時間:5時間30分 |
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余呉湖観光館に駐車場がありますが、更に500m南へ進みます。対岸に『朝の虹って珍しいなあ』 |
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「賤ヶ岳岩崎山登り口」の指標で路肩に置車しました。3月末、冬が粘り腰を見せ気温4℃、冬モードで出発。 (8:50) |
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アベマキとアカマツの林が広がり、階段を急登します。 北端の岩崎山は省略。大岩山を目指します。 10分で尾根に着き右折。遊歩道を進み林道を横断すると‥ |
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「中川清秀の墓」。登ると広い大岩山砦跡280mです。奥に立派なお墓。 秀吉側の中川清秀は、この砦に千人で陣を張る。柴田勝家側の佐久間盛政が7千人で奇襲し中川は全滅。 その後、秀吉の追撃で佐久間盛政は敗北しました。(9:20) |
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大岩山から300m進むと東斜面下に首洗いの池。土民たちが中川清秀の遺体をここで洗い、谷に隠しました。 (9:30) |
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秀吉が、佐久間盛政の迫撃戦を指揮していた猿ヶ馬場270m。四等三角点がありますが見逃してしまい残念。 (9:40) 戦線が余呉湖西岸へ移ると秀吉は陣を賤ヶ岳へ移しました。 |
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道には昨夜の雪が薄く残ります。踏み跡は明快。積雪があればスノーシュー縦走でした。そして‥ |
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賤ヶ岳三等三角点421m山頂。織田信長が本能寺の変で逝った後、秀吉と柴田勝家が1583年、覇権をかけた古戦場です。 (10:25) |
山頂広場にある武者の像。槍に寄りかかって腰を下ろし、兜を傍らに置いています。疲れ果てて戦のむなしさを物語るようです。 |
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静かな余呉湖、素晴しい360度のパノラマを楽しめます。 この眺めは「新雪・賤ヶ岳の大観」という琵琶湖八景のひとつ。 左端が、余呉トレイル行市山660m、右より奥の小さな三角錐は七々頭ヶ岳693m。 |
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南に最後の目的地、山本山へ山稜が延びています。賤ヶ岳は、道のりの1/3にもなりません。右上は琵琶湖。 |
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賤ヶ岳のリフト乗り場から尾根を南下しました。鉄塔を2基過ぎると広葉樹の整然とした樹林です。登りきると… |
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右近山360m四等三角点、展望は無し。先を急ぎましょう。降ると赤尾分岐、有漏(ウロ)神社分岐、磯野山分岐。 (11:25) |
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山稜の幅がぐんと狭くなります。丘陵上には、3〜7世紀築造された132基の古保利古墳群です。 (12:05) |
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江戸期に余呉川の氾濫に悩まされた村人が、掘削した西野水道(放水路)上に出ます。 琵琶湖の水面は標高80m、山稜の東は90m。琵琶湖の方が低いことをよく分かったものです。 東方面、下に見える用水が西野放水路。今は山稜下に新しい水道が通っています。 手前の低山は、左:山田山541m、右:小谷山495m、写真中央の雪山は天吉寺山918m。 (12:40) |
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古墳を過ぎると片山分岐。明治27年〜昭和37年まで湖畔の片山集落から児童が、山越えした峠です。 広い道が古保利小学校への通学路。子供たちは心細かったでしょうね。今は片山トンネルが通っています。 (13:00) |
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そして急登を丸太階段で登ると「馬の蹴跡」「二番馬場」「一番馬場跡」の木札が続きました。 |
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琵琶湖に面した尾上(オノエ)漁港、その左に水鳥公園の展望。向こうは、葛篭尾(ツヅ゙ラオ)崎の半島です。 |
山本山山頂広場は一段高い土塁に囲まれ、東南角に二等三角点324mがありました。 (13:40)〜(14:35) |
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山頂は公園のように整備され、城跡の遺構があります。本丸跡で『飯だ、飯だ』 随分遅くなりましたが、ランチに好適な場所ということでここまで耐えました。 戦国期、山本山には浅井長政の支城があり、阿閉氏が入りました。 阿閉氏は秀吉に属していましたが、本能寺の変後に明智光秀につきます。 『殿、不正解』 そのため阿閉氏とともに山本城も滅亡しました。 |
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山上からの下山路は広く、ジグザグ急降します。常楽寺の境内を抜ければ、ミニ縦走の終着点‥ |
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朝日小学校東の駐車場に到着。余呉湖湖畔の駐車地まで13km、車で戻ります。 (15:00) 琵琶湖の眺め、湖北の山々の展望、歴史の遺構と魅力タップリでした。 |
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左から長さん、ジオンさん、ボトルさん、福ちゃん、あさひさん、ももさん、山田さん、ドルフィーさん、山たまご。皆さんお世話になりました。ありがとうございます。 |
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東海岳行 |
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“おもてなし” | ||||
旅行社の人がツアーのポイントは、ホテルと食事だと言っていました。それが良いと旅行者の満足度は高くなるそうです。3月上旬に行った沖縄ケラマ諸島ツアーは、その法則から行くとハズレでした。島のホテルの食事は家庭料理の品数の多くしたもの。 最終日、那覇市のビジネスホテルの夕食は銀のさらの弁当。格安ツアーなのでしょうがありません。初日は那覇に夕方着でしたので食事は付いていません。そこでリンクいただいてるトリップアドバイザーで旅行者が選んだ人気レストランを探しました。 旅行前日、国際通りのレストランに予約電話を入れます。夜7時の予約は満席で不可、遅いけど8時を予約。ホテルから歩いていける距離です。歩道を歩いていると中国からの団体客が大きな声を出して歩いてきます。『せいぜい爆買ししてくださいね』と道を譲ります。 鉄板焼ステーキレストラン碧に入ると『山たまご様ですね』と席に案内してくれました。女性スタッフだけの運営です。席に案内され注文しますが、ステーキはすべてコース料理です。 ツアーの食事は期待できませんので、ここはちょっと贅沢しました。先付と新鮮サラダから始まり、デザートの沖縄風ぜんざいで終わる10品。コックさんが『○○ともうします。よろしくお願いします』と挨拶しました。とても若い女子で20代前半かな。 野菜のオリーブ炒め、島豆腐と紅芋の材料を鮮やかな包丁さばきで鉄板で焼きます。『どちらからお越しですか?』『沖縄はよく来られるのですか?』と明るい話し方。会話も弾みます。ひとつひとつ素材や料理の説明もしてくれました。『久米島産の車海老でございます』 包丁で頭を切り、身を殻から外してお皿に乗せてくれました。二人が食べ終わると『せんべいを作ります』と言い、殻を回収して鉄板に頭と殻を置き鉄へらで強く押します。ぺちゃんこになった頭と殻を『はいどうぞ』 こんなの初めて。食べると『せんべいだ!』 コップのビールがなくなると注いでくれます。笑顔一杯で肉の乗った皿を持ち『お肉です』 嬉しくなります。『幸せだなあ』 『沖縄の家庭料理の人参のシリシリーを作ります』 刻んだ人参に卵を混ぜ合わせたものですが、人参の甘味が引き立つ素朴な味でした。 最後にデザートを食べ、彼女に『ごちそうさま』と言って席を立ちます。レジで支払いを済ませて外に出て時計を見ると9時を回っています。『1時間かけて食べたんだ。ここにして良かったね』と話すと、後ろで『ありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい』先ほどのコックさんです。 お蔭でおなかも心も満ち足り、ホテルへ歩き出しました。結局、今回の沖縄ツアーのピークは、この夜の1時間だったのかもしれません。 |