1.出発
何年か前、春先に「藤原岳」へ福寿草の下見に単独で出かけました。「聖宝寺」に置車し山頂から「白瀬峠」経由で木和田尾根を戻る予定です。隣の「坂本谷」は土石流で通行止めとガイド本に書いてありました。
登山道は、ぬかるみも少なく順調に「藤原山荘」へ着きます。福寿草も輝いている。「展望丘」まで進み大展望を楽しんだ後、山荘に戻りランチです。そして初の「天狗岩」へ向かいます。
2.出会い
30分ほど快適に歩き「天狗岩」に着きました。回り込むと一等席には、年配の方が単独でランチをされています。挨拶をして写真を撮っていると
『藤原へは良く来られるのですか?』と尋ねられました。
『いえ2度目です。』と初心者丸出しで答えます。
『そうかね。私は65歳だけど登山は7年前から始めた。ここも何度か登ってます。』
それから鈴鹿からアルプスまで彼の登山話を10分以上聞くことになりました。初心者の私から見れば山も人生もベテランです。
『どちらから帰られるのか?』と聞かれたので
『白瀬峠から木和田尾根を降り聖宝寺に帰ります。』
『それは大回りだ。私は坂本谷から戻ります。』
『あそこは立入禁止では?』
『大丈夫、大丈夫。前に通りましたから』
『そうですか、お気をつけて。ではお先に‥』
別れてすぐの「天狗岩」から「白瀬峠」への分岐がわからず、雪面の中を5分ほどウロウロしました。来た道を辿ってその分岐を見つけほっとします。「白瀬峠」に着くと案内板に<坂本谷立入禁止>の文字。『やっぱり』
そこから細い山腹道の雪に緊張し「坂本谷」への分岐に出ました。
3.再会
「坂本谷」方向を覗くと荒れた様子も水流もなく静かなものです。しかし単独なので安全パイの尾根で戻る気持ちは変わりません。倒木に腰掛け一息ついているとザクザクという音が聞こえてきました。見るとあの「天狗岩」で別れた彼が、2本のスキーストックで雪の急斜面を降りてきます。
私を見つけ、こちらに向かってくる。
『やあやあ、天狗岩から白瀬峠への分岐を見つけられなく、適当に降りて来た。』
『すごい!よく来られましたね。私もあそこで迷いました。』
『どうです一緒に坂本谷を降りませんか?近道ですよ。』誘いに一瞬迷いましたが、せっかく誘われて断るのも悪いし、そこが近道になのに魅かれ
『じゃあ、お供しますのでよろしく。』と答えました。意志が弱い。
後ろからついて歩きだすとすぐおかしな方向に進んでいかれます。
『あのー、ここは右に曲がって降りるのでは‥。』
『おう、そうだそうだ』ちょっと心配だ。しばらく谷の左岸の踏み跡をたどっていくと斜面に忽然と福寿草の大群生が現れました。
『綺麗綺麗!』写真を撮る間待っていてもらい、また岸を行きます。
4.危機
そのうちときどきあったテープも消え、踏み跡もなくなりました。
『う~ん、おかしいな?前はこの斜面に道があったのだが‥。そのときはここを登ってきたんだが、降るときとは様子が違うものだ。』
『(え?)‥』
だんだん左岸は急斜面になり立木も少なくなった。足元の土はボロボロと崩れ、歩くたび小石がカラカラ落ちていく。危険な場所を避けながら歩いているといつか斜面の上部を歩いており、谷までの高さは数mだったのが、今や30m近くある。危険な状況に内心『(しまった。木和田尾根を行けばよかった。)』後悔してももう遅い。
10mほど前を行く彼が、さらに斜面の高みへ上がろうとする。踏ん張った右足の土が、右の谷にザザーッと崩れた。山側に左肩からどっと倒れ同時に滑り落ち出す。慌てて踏ん張るが、周りの土石を巻き込み一気に加速がつく。そのとき体に当たった枯木の切り株を必死でつかんだ。土石だけが跳ねるように落ちていき、遠い谷底で音を立てる。
彼は急斜面に両手で切り株を抱かえ腹ばいでぶら下がっている。足をあげ踏ん張って登ろうとする。歯を食いしばり必死の形相。しかし斜面の土はもろくガラガラ崩れ、足は空振りするだけ。やがてあきらめてぶら下がっている。私はもがき終わったのを見て、ストックとザックを下ろす。
腰を落とし尻をつき慎重に彼の所へ行く。その姿勢であの切り株に足を当てる。彼の2本のストック束ねて彼につかむように言う。少し上に来た彼の襟をつかみ、声をかけイチニのサンで引き上げた。
『ありがとう、ありがとう』
『ここは高すぎる。谷へ降りましょう。私が道を探します。』
『降りられるかな?』
そして立ち木の安定感を確かめ、それに頼りながらジグザグに降りて何とか谷に着くことができました。あとは枯れ谷の大岩を乗り越しながら降っていきます。
5.別れ
谷の最後にダムの大堰堤です。長いアルミ梯子が垂直に立てかけてあり助かりました。再会した分岐からなんと2時間過ぎています。やっと緊張感から開放されカラカラの喉にお茶をグビグビと流し込みます。車道を歩いて行くと彼が、谷を振り返り
『ここで失礼する。山は綺麗だが怖いトコだ‥。』と言い、お互い名前も知らないまま別れました。
私はこの命がけの経験がショックで、家でしこたま反省文を書きました。
翌週、ひよこさんと木和田尾根を登り、あの再会した分岐から「坂本谷」へ進み、福寿草のお花畑を見せてやりました。当然、この谷を降りて帰るつもりはなく、元の道へ戻ろうとします。すると下から谷中を通りどんどん登山者が上がってくる。
『通行禁止じゃないのですか?』と聞くと
『いや、工事の人が気をつけてと言って通してくれました。』とのこと。土日はいいのかな? でも安全第一、元の道から帰りました。
あの人は‥きっと今も元気に登っているのでしょう。もしあの時、あの出会いがなかったら‥。
※現在「坂本谷」は、通行禁止になっていると思います。 |