長期間にわたり更新できず、この間、ご訪問いただいた方には誠に申し訳ありませんでした。

3/19(土)岳行ノートをアップしようとパソコンを操作しているとフリーズ。電源を入れ直しても画面は真っ黒。
メーカーに電話してあれこれやりましたが、結論は故障でした。即座にヤマダ病院に運び込み手術入院の手続きをします。
数日後、修理センターから電話があり、メインボードハードディスクが不良のため交換するとのこと。

人間の身体なら心臓と脳がアウトになったと同様の重体です。そうなると修理後、自分で記憶中枢の
ハードディスク
を復元しなければならず、知識のない私は必死でマニュアルを読み頭を痛めていました。
幸いなことにセンターの名医からその作業をやっておきましたと連絡があり、全快して復帰の運びとなりました。

購入時に5年保証に入り、まだ3年未満でしたので入院費が無料だったのはせめてもの救いです。
ついでにキーボードのボタンの調子が悪かったので新品に交換しました。これは消耗品扱いで有料‥
月替わりしましたが、アップできなかった岳行ノートが、ようやくお披露目となりました

岳行ノート

W権現山 317m/岐阜県岐阜市・各務原市

2011年3月10日(木)


岐阜市東部クリーンセンターから見た岩場コース


手前が左コース(登り・降り)、奥が右コース(登りのみ)
右上ピークが岐阜(芥見)権現山、その左下に「槍のように尖った岩!」




 昨年末に岐阜権現山の山頂に登った時、そこに山域の地図が掲示されていました。登山道が縦横に描かれ、未踏の道ばかりです。

 そこで歩いていない道をつないぐ周回を計画しました。初めてメールを頂いた野良人さんから山行のお誘いがあり、一緒に周回をすることにします。

 それが私にはとても幸運な出合いとなりました。彼は私の未踏の道を歩かれています。それに岩場の登攀経験が豊富です。


 そこで周回コースに、未踏の道で単独では歩けない岩場コースを加えました。


 教科書は、岐阜(芥見)権現山山頂に掲示された地図です。
<駐車場>
[-]広域図、[+]詳細図、ドラッグスクロールで移動



駐車場→リフレ登山口→岩場左コース登山口→岩場右コース登山口→▲岐阜権現山
旧道登山口→わらび道登山口→▲各務原権現山→▲北山→3中電鉄塔→駐車場

 ※赤線はGPS軌跡 黄丸は分岐
■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号)」


江  南:午前8時05分発  2℃晴れ
駐車場:午前8時50分着  3℃晴れのち曇り
往:2時間25分(岐阜権現山まで以下、小休止含)
復:2時間45分
◆所要時間:5時間10分



 駐車地は、岐阜市東部クリーンセンターです。ここでまず全体のコースの確認と相談を二人でします。

 岩場コースは野良人さんも未踏で登りたいと思っていたところでした。登り降り、登り降り、登り降りの3段跳びコースです。
(9:15)





 車道を西へ歩くと『ここだ、ここだ』リフレ芥見(健康増進施設)の北側に最初の登山口を見つけました。
(9:20)

 10分ほど登ると眼下は大パノラマ。『これは、いいですね』
右奥は、低山ながら多峰の百々ヶ峰418m、中央左奥は、1月に登った池田山924mです。




 そして第一目標のピーク、芳野神社。昨年末の権現山周回の際は、北斜面からここに着きました。ここで小休止をして‥
(9:55)

 尾根を5分ほど進むと標識はありませんが、岩場左コースの降り口。踏み跡を東部クリーンセンターを下に見て降ります。

 こちらは登り・降りができるコースです。下山口までは、標高差190m余り。(10:10)



 イキがる山たまご。

 途中、東の岩場右コースを見ると槍岩が見えました。ルート上でしょうか?洞穴↓のようになった箇所もあります。

 岩の赤ペンキ印で下山方向を確かめます。

 岩を避け、巻き道を探しながら降りました。

 下山口は東部クリーンセンターの建屋北側です。次の登山口へ向かうため、車道を南へ向かいます。そして東海自然歩道に乗り左折。(10:40)

 舗装道を上り、50mほど標高を稼ぐとヘアピンカーブに岩場右コース(登りのみ)登山口。5分ほど小休止し出発します。(11:00)

岩場前で左コースとの連絡道がありました。(多分、GPS地図の一番細い箇所かと思います)
山腹道を進むとやがて大岸壁です。私は岩壁右の巻き道を登ります。
野良人さんはで岩登り開始。そしてあの槍岩が見えましたが、彼は躊躇なく登ります。

私は、ここでもやはり巻き道を選択。
やがて天辺にすっくと立ち上がったので驚きました。
宝剣岳2931mの岩頭にも立ったことがあるので度胸があります。

 巻いて槍岩に辿りつくと南側は崖ですが、北側は大した高さもなくすぐ足の置ける槍の肩でした。
 こちらのコースは150mの登りです。一人では太刀打ちできせん。巻き道がない所は、岩登りのアドバイスを受けます。

 『三点支持、三点支持』と念仏を唱え、岩にしがみつきました。やはり登り専用というだけ厳しいコースです。(11:40)


 必死に登る山たまご。


 1時間半の岩場登降でエネルギーを消耗しました。尾根に登り着くと山頂は目と鼻で、補給をします。

 ランチ時なので岐阜(芥見)権現山山頂には、大勢の登山者が到着。右の掲示板に教科書にした地図があります。
(11:40)〜(12:20)

山頂は展望が四囲にあります。北西に‥
左:小津権現山1158m、中央雪山:花房山1190m、右雪山:雷倉1169mです。


直降ルートの老洞峠より大廻りですが、山頂からは東尾根で下山します。
途中、振り返ると岩の断層が観察できる所があります。昨年末、あの岩場の下を下山しました。
(12:40)
 東尾根のルートは、光輪公園分岐に唯一、手作り道標があるだけです。でも登山道は歩きやすく分かりやすい。

 やがて緩やかに谷部へ降り、県道17号線の旧道に出ます。

 そこが桐谷坂旧道登山口で右折して舗装道を進みました。(13:15)



 人気のない川崎重工アパートを過ぎ、道標で東海自然歩道に入ります。するとチェーンの車止めの手前で野良人さんが‥

 『舗装道はつまらないからバリルートを行きましょう』と林へ入り、堰堤を渡ったりと知る人ぞ知るという踏み跡を辿ります。

 10分後、再び東海自然歩道へ出て東屋で休憩。道を直進すれば老洞峠。目的の登山口は、東屋左の舗装道を降り‥
(13:45) 

 5分歩くとわらび道登山口です。急斜面をジグザグと登ります。お金は中々たまりませんが、乳酸は簡単にたまることを理解する道です。
(13:55)




 以前は名前通り登山道でワラビが採れましたが、採り尽くされたとのことです。わらび道の名前が裏目に出たのでしょう。




 20分の登りが長く感じました。四囲に好展望の各務原権現山山頂です。ここからは、もう厳しい登りはありません。
(14:15)

山頂から次のピーク北山へ向かいます。
その手前で北方向を見ると、歩いて来た東尾根、山裾に刻まれた東海自然歩道が見えます。
左端上が、2時間前に出発した岐阜(芥見)権現山山頂です。





 そしてピークの北山を過ぎ、西へ尾根を歩くと中電の3鉄塔が先に見えます。そこから鉄塔巡視路を北へ降りれば‥
(14:50)



 10分で東部クリーンセンター前の東海自然歩道に降りました。駐車場は、道の向こうです。
(15:05)

 野良人さんのお陰で何本もの未踏ルートを塗りつぶせました。年長ですが、私より遥かに元気な方で勇気づけられます。


東海岳行
   “天災の後” 

 今回の岳行ノートを作るため、山頂から見えた山の同定作業をパソコンでしている時、目がくらくらして気持ちが悪くなりました。それが長く続くのでパソコンから離れ寝ころんだのです。その時、テレビに大地震の速報が流れたため、作業を止め臨時ニュースを注視します。

 津波の映像が入り、想像を超えた破壊力に驚かされました。大きな船が流れ、大切な車、築いた家が流される。‥涙が出てきます。その後、テレビもCM無しで終日このニュース一色です。失われた日常の光景を見ていると私の心に沈めた思い出が蘇ります‥

 私は小学生の時、一生で一回あるかないかの天災を名古屋市南区で体験しました。それは昭和34年9月26日18時、潮岬に上陸した伊勢湾台風です。5000人以上の犠牲者を出し、大災害をもたらしました。4年前の道草「父の一番長い夜」で決壊した堤防から押し寄せた水に逃げ惑ったことを記しました。



 その時、停電で真っ暗な部屋にもの凄い勢いで浸水があり、私たち5人家族は押入に上がり、平屋の天井へ逃げました。数時間後、伊勢湾から来た水は3mほどの高さで止まり、天井まで達しなかったお陰で家族は助かったのです。風の唸り音と真っ暗やみの恐怖で一睡もできず、夜明けを待ちます。

 瓦の飛んだ屋根から朝日が洩れると埃だらけの場所にいることが分かりました。浸水した水は海とつながっているため、干潮になると床下まで潮が引きます。昨晩は5時過ぎの夕食でしたのでお昼ごろ腹ペコになりました。すると川になった道路に手作りいかだで市民救援隊が水没した家々を回りお握りを届けてくれたのです。

 おばさんから5人分5個が父に手渡されました。埃にまみれた手で受取り、具の無い塩味だけのお握りですが、優しさと思いやりの味です。救援隊は、たびたび巡回し情報も伝えてくれます。被災者は市バスに無料で乗車できることが分かりました。父は、それを聞き子供を3人を救援隊に託します。



 私たち小学生3人の兄弟は両親と別れ、不安定ないかだに乗り、水のない場所まで送ってもらいました。そこから国道まで歩きバス停で待ちます。本当に無料か心配でしたが、バスの運転手さんは微笑んで乗せてくれました。私たちは、裸足に埃で汚れた寝巻姿なので誰が見たって被災者です。

 堀田のバス停で下り、その姿で親戚の家まで1時間近く歩きます。周りからジロジロ見つめられとても恥ずかしかった。家へ着くとおばさんが待っていて勝手口に回り、お風呂で3人は埃まみれの身体を洗います。しばらく居候をしていました。

 おばさんは、日本初の週刊マンガ誌「サンデー」と「マガジン」を買ってくれ、1ページも残さず兄弟で読んだのです。復旧工事は着々と進み、決壊した堤防は土嚢で仮止めされ、浸水した海水をポンプで川へ戻します。3週間後、水が無くなったので私たちは家に戻りました。構造物だけ残された家です。



 濡れてけたたましく重い畳を捨て、土をこね壁に塗り、障子紙を貼る。やることは一杯あります。親戚の人たちが、かわるがわる手伝いに来てくれて嬉しかった。やがて待望の電気が通じます。暗くなって裸電球を点けるとそれは希望の光に感じるほど明るく力強い光でした。

 そしてガスが来て水道が来て‥時間はかかったけど生活は着実に戻ってきたのです。ときどき救援物資が集落に届けられます。指定された広場へ行き乾パン、お菓子、古着を皆で分け合いました。中には米国からものがありキャンディー、クレヨンなどはじめて見る包装紙に心が弾みます。

 何しろ家財や衣服は水浸かりで殆ど使用不能です。そういった物資は母が喜んでいました。1ケ月以上過ぎ、小学校から授業を再開する知らせが入りました。学校の運動場は朝礼が出来るようになっていましたが、周りはまだ使いものにならないオルガンや瓦礫が積まれています。



 教材は一切なくなったので手ぶらで登校したのですが、徐々に学用品や教科書の支給がありました。寒くなる前に畳を入れたり、家財を揃えたり生活の体勢が整います。お金が必要だったと思いますが、我が家は貧乏人の子だくさんで貯金がないことは知っていました。

 その後、両親にそのことを尋ねると市から復興のための無利子融資があったそうです。塩水に浸かった田畑の復帰は大変だったと思いますが、思ったより早く作物が出来るようになりました。50年前の生活水準と今では随分大きな開きがあると思います。

 あの時、父母は私たち子供の笑顔を取り戻すため必死で復興に励んでくれました。道路を歩き学校へ行けば、日に日に変わるので周りから沢山の支援を受けていたことは分かります。冬までには、ささやかな日常を取り戻すことが出来ました。大災害の被災は身に染み込みましたが、1年もすると思い出として消化されます。

 小学生の私は、過去のことをはどんどん忘れ、これからの未来ばかり見ていました。それは私を支えてくれる両親や周囲の人のおかげだと言うことは大人になって気付いたのです。



 東日本大震災で被害に会われた方々へ心よりお見舞い申し上げます。色々な方たちが、形は違っても一日でも早く皆さまが復興できるように支援しています。私も助けて頂いた50年前の恩返しをしなければなりません。


11.04.02(土)14:20