岳行ノート
野麦峠/岐阜県高山市  標高1622m

 先回「御前山」を登ろうとしたとき、林道入口に[癒しの道・南飛騨森林回廊]の標識があります。‥思い出しました。

 家に帰り、そのコース地図のファイルを改めて見ます。全21コースの中で「野麦峠」が、目に留まりました。

 その峠は、岐阜と長野の県境にあるという程度の知識で正確な場所は知りません。なんと乗鞍御岳の間の峠でした。

 本や映画で有名ですが、調べ始めると実に興味深い峠です。旧野麦街道も残っています。

 先日買った分県登山ガイドにも「野麦峠」が載っていました。では行きましょう。単独です。

駐車場周辺図
教科書は「癒しの道・南飛騨森林回廊 18」参考書は山と渓谷社「新・岐阜県の山」です。



野麦峠:みねと兄の石像



野麦の館P→迷(黄線)→野麦峠(水準点)→三地蔵→展望台→野麦の館P

※色線は実測ではありません。
■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号)」

 
2006.6.10(土)江南6時10分発 
             曇り  19℃ 
登り:計2時間45分(小休止含)
降り:計1時間35分(小休止含)

 [野麦峠物語]

◆野麦の集落から6キロ。飛騨と信州の国境に位置する野麦峠は標高1672mです。峠の辻には、お助け小屋が復元され、売店・食堂・宿泊施設として利用できます。また山本茂美作「あゝ野麦峠」の工女政井みねが、兄に背負われた石像が広場中央にあり象徴的です。


◆明治の後半、生糸は日本の輸出額の3分の1を支えていました。現金収入の少ない飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて岡谷の製糸工場へ「糸ひき」として働きに出されます。2月末に飛騨を出て5泊6日で工場に着き、12月末に帰省するまで働きました。

 朝5時から夜8時までの長時間労働、熱さ、湿気、さなぎの悪臭という大変な労働環境。


◆工女政井みねは、14歳頃から毎年製糸工場へ出稼ぎに行きました。3年後に「百円工女」(年収)と呼ばれる優等工女になります。当時の百円は、驚くことに家が一軒建つほどの価値です。 
 我が家から飛騨清見IC経由で3時間。『とおい!』高根町野麦集落に到着しました。

 野麦の館隣接の公衆トイレスペースに置車して出発します。これから約5kmの道のりです。
(9:20)
 県道をしばらく歩き、旧野麦街道の標識から入ります。『ここを車で行くとコトだな』とあせった様子のワンボックスが帰って行きました。
(9:35)

◆江戸時代には、この道で信州に「飛騨ぶり」などが運ばれ「ぶり街道」とも呼ばれていたのです。

地道の水溜りに注意し、路の花を見ながら益田川沿いを歩きます。
 水準点の分岐に来ました。左方向の山へ登る細い道を見送り、今まで歩いてきた広い道を流れで直進してしまいます。
(10:00)


◆直進は×、左折が○でした。
 10分ほど歩くと川に突き当たり、道がありません。『アレマ!間違えた』100mくらい戻ると‥。少し離れた北側の道を行く団体が見えます。

 かっこ悪いので通り過ぎるのを待ち、ヤブを跨いでその山道へ入りました。
 伺うと10名ほどの団体は、御岳休暇村のツアーの方たちです。
 やがて道は、稲妻を切る急登になります。
 スミレ草の群落を過ぎ、斜面を登りきると地蔵堂です。少女たちも険しい登りを終え、手を合わせた後、きっと里を振り返ったことでしょう。
(11:00)

 
 ここから野麦集落と大きな乗鞍岳を望めます。
飛騨の里を見るのもここが最後です。
でもここから道は平坦になりいい気分。
 歩きやすい道は峠まで続きます。道端で賑やかなラショウモンカズラ、ニリン草、サンカヨウ、マイヅル草の群落が楽しい。

 ブナの大木も見られます。
上段:エンレイ草、ツバメオモト
下段:3本でもニリン草、サンカヨウ
 御岳休暇村ツアーに花の詳しい方がみえ、その都度一緒に愛でるので中々進みません。
 鏡池に着きました。以前、沼だった所を池にしたそうです。乗鞍が映るのそう呼ばれています。もう峠は目の前です。
(12:00)
 そして峠に着きました。道は長野県側に続いています。大勢の観光客が散策する園地を抜け、県道を渡りました。

 みねの茶屋手前の標識から降ります。
 数分で三地蔵です。
(12:25)

◆鎌倉時代より峠は難所でした。冬期、凍死する人も多く村人は、霊を慰めるため石仏を祀ります。

 昭和になり自動車道ができるといつか石仏が持ち去られました。それを伝え聞いた中条村の山本氏が嘆き、自費で再建したのです。
再び峠に戻り、園地の中央に行きます。みねと兄の石像です。

 みねは20歳の時、信州・岡谷の工場で病気(腹膜炎)になります。
みね危篤の電報を受け取った兄は、160キロの道を寝ずに歩き通し
わずか2日で工場に到着しました。そしてみねを背負い4日間で峠に登ります。

野麦峠に辿り着いた時、みね『ああ飛騨が見える、飛騨が見える』と嬉しそうに言いました。
そしてそば粥を一口飲み、息を引き取ったそうです。明治42年11月20日のことです。

兄は、明るい日中では遺体を背負って村々を歩けられないので夜歩き5日後、帰り着きました。

昭和54年東宝映画で大竹しのぶが演じたこの最期の場面は、思い出すだけでも涙が出ます。

 標石があります。明治36年設置で日本一高所の峠の水準点(1672.29m)です。

◆この付近でみねは息絶えました。合掌
 峠の園地奥で往時の雰囲気を出すお助け小屋です。村の民家を移築して建てられました。

 岩魚塩焼600円、岩魚定食1500円、缶ビール300円、缶ジュースは130円也。土産品もあります。
 小屋から展望台に登りました。信州の山並みと園地が見渡せます。

◆年末に工女たちが帰省する前、工場は人足を雇い雪道を踏み固めました。その踏み跡を何百人もが、列を作り辿って行ったのです。

 峠で吹雪いてもお助け小屋に全員入れず、外で身を寄せ合ってしのぐこともありました。
 展望台には政井みねの碑があります。

◆昭和43年に山本茂美が、ルポルタージュ「あゝ野麦峠」を発表。吉永小百合が映画化を熱望し、翌年自身でもこの峠道を歩きます。

 監督まで決まっていましたが、結局日活の企画は流れました。しかし感銘した彼女は、この碑の資金を贈ります。

 実兄の承諾を得、村々の協力で昭和45年5月飛騨と信州が見えるこの場所に建立されました。
(因みに大竹しのぶの映画ロケ地は山形県)

 まだ食事をしていません。鏡池に向かうとき、リスが道を横切りました。
池のほとりでランチにします。その後帰る予定でしたが‥。
(12:55)〜(13:20)
 池に佇む建物が気になり行ってみます。そこは野麦峠の館で資料館でした。入場料500円です。館長に勧められ入館します。

 館長のお話が興味深く、一時間も見学しました。下段の<道草>をご覧ください。
(13:30)〜(14:30) 
 すっかり峠で長居をしました。同じ道を少し早足で戻ります。

 途中からNHK自然観察セミナーのグループに帯同して歩きました。

 20名の団体さんです。みなさん花に詳しい。

 『これは、ラショウモンカズラね』
 樹林の下、セミナーの先生が次々花を見つけるので都度足が止まります。
※08年6月、その先生から私のこのレポを見ましたとメールをいただきました。
上段:ホウチャク草、オドリコ草

下段:テンナンショウ、紅花イチヤク草
 駐車地に帰着し、旅が終わりました。隣にあるノスタルジックな旧校舎野麦学舎にもお別れします。

 今日の感動を反芻するため、下道でゆっくりと帰りましょう。
(16:15)

少し走り、高根町から乗鞍岳を振り返ります。右奥が野麦峠です。
味わい深い一日でした。しばらくの間、旅の舟は思い出の波に揺られているでしょう。

館長に『政井みねさんの墓は河合村角川の専勝寺裏(河合小学校の隣)にあります』
と教えていただきました。機会を作りお参りに行こうと思います。

※’06/08/18「天蓋山」の帰りにお墓参りできました。
※’10/5/16「大道草40」で長野県側の奈川野麦峠まつりのエピソードを記しました。





  野麦峠の館


 峠の資料館は「野麦峠の館」、入館すると左のお嬢さんが迎えてくれます。当時の工女の衣装です。なお今回の駐車地にあるのは、お食事・宿泊処「野麦の館」で勘違いしやすい。

 当時、優秀な工女は長野県から表彰されました。賞品があり、針箱(5年勤務)やタンス(10年勤務)です。彼女たちの喜び誇りは、それは大きく今も表彰状が残っています。

 数年前、岡谷から製糸工場の次代の方が、意を決して峠に来られました。『本や映画のため工場側は、まるで悪役で野麦峠は来たくなかったと話されたそうです。



 館長が、彼女達が岡谷でそのころ撮った楽しそうな写真、大事に保管していた表彰状、古里の恋人とやり取りしていた恋文を見せました。

 『彼女たちは、厳しい中でもこうして岡谷でたくましく生きていたと思います』と語ると『今日は来て良かった。仏前の親父に報告します』と涙を流されたそうです。
 
 当初は、口減らしで娘を働きに出したかもしれません。しかし、製糸業が隆盛を迎えると現場は人手不足になったのです。各工場は、飛騨の町々にスカウトを派遣し、優秀な工女を獲得するため契約金を親に払います。表彰制度も魅力付けのひとつでしょう。



 工場では、花見・芝居見物・盆踊り・運動会と娯楽も提供し、まさに工女様々です。実際工女たちは、工場の食事、賃金、長時間労働について苦しいと答えたのは、ほんの一握りでした。なぜなら家にいたら、貧しい生活環境で重労働を長時間しなければ食べていけないかったからです。
 
 当時、製糸業だけでなく農業、漁業、鉱業など厳しい環境の仕事は多くあったと考えられます。医学も今日ほど発達していないので身体の弱い人は、亡くなることもありました。しかし歴史の中でみねさんのことは、哀しい事実として今後も語り継がれていくでしょう。と館長が締めくくられました。
左:峠付近には、熊笹が多く茂っています。熊笹は50年ぐらいに一度花を咲かせ、稲穂のような実をつける。これを飛騨では「野麦」と呼び峠の名になりました。

中:全都道府県の代表峠を写真で展示しています。三重は鈴鹿峠愛知は陣座峠静岡は天城峠滋賀は摺針峠となってました。

右:地元高根町で算出する樹木標本が20本あり、全部写真に撮りたかった。

※このレポの中のエピソードは、多くは館長にお聞きしたものです。『またお越しください』と別れ際におっしゃられ『はい、また来ます』と私も返事しました。今度はひよこさんを連れてきましょう。

 ※06/07/15「水木沢天然林」の帰りにひよこさんと再訪できました。
 ※07/07/24 「岡谷蚕糸博物館」に行きましたが、休館日でした。