2012年2月18日(土) 指さす先、岩壁に謎の洞穴 2014.05.29(木)11時25分 山姥社 青木一幸様より以下のメールを頂きました。 初めまして。犬山にて5/27まで山姥物語企画展があったので行ってまいりましたが、検索をかけると2012年2月18日(土)の岳行ノートに興味深い記述がありましたので投稿させていただきました。 「第1の洞穴」相澤山の岩窟は、戦後中国より引き上げてこられた行者が 不動尊を奉ったもので八大龍王ではありません。また岩窟についても開削されたものです 「第2の洞穴」は大蛇の岩穴とよばれ古くから信仰されていたもので朽ちて無くなってしまいましたが洞穴の前には御社がありました。ここが山姥の岩穴と伝えられており、現在でも山姥社より岩場を降って参拝される方があります。 |
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近郊低山をご一緒する野良人さんのメール。「本宮山登山で神社の秘境探索と伝説の謎に迫り、2座をピークハントしましょう」豪華な内容です。 本宮山西麓には大縣(オオアガタ)神社があり、予習しました。ウィキペディアの抜粋、「神社は本宮山山頂から紀元前3年現在地へ移転した。 境内に姫の宮があり、安産・子授など女性の守護神として女陰をかたどった石が奉納されている。小牧市田縣(タガタ)神社の男根に対応するものである」 昨年3月、野良人さんと尾張三山駆けをした時、山頂近くの祠で山姥(ヤマンバ)伝説の大筋は聞かせてもらいました。謎があるとは知りません。 野良人さんが発見した山姥の棲みかを案内してもらえます。好奇心に満ちたヤカンが沸騰します。 |
<駐車場> [-]広域図、[+]詳細図、ドラッグスクロールで移動 |
駐車地P ↓ ▲吉野山 ↓ ▲相澤山 ↓ 山姥の洞窟 ↓ ▲本宮山 ↓ 道迷い ↓ 砕石保管地 ↓ 駐車地P ※赤線はGPS軌跡 ※黄●は主な分岐 ■「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平17総使、第98号)」 |
江 南:午前8時30分発 晴れ/4℃ 駐車場:午前9時20分着 晴れ |
往:2時間50分(以下、小休止含) 還:2時間20分 ◆往還時間:5時間10分 |
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厳冬が緩み、希望色の朝日を受ける本宮山。水道施設横の草地へ駐車。北の富士橋を渡り左折します。 (9:30) 300m西進、左折して桜海道橋・入鹿薬師橋を渡り、溜池に沿い東進。 |
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フェンスがあり、向こう側が中電巡視路です。右に入口があり、15鉄塔標識に従い、雑木林に。(9:40) |
しばし登れば、15・14分岐。14を取り、登れば、小牧市街など西の展望です。 (9:50) |
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南方向へ尾根道で高度を70m上げれば、1山目の吉野山222m。 ※別名:楽田(ガクデン)山「愛知アルプス山行記」 鉄塔巡視路を外し、シダを分け南の道へ左折して‥ |
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尾根道を降り、10鉄塔標識を追いました。楽田ミカンの畑を降り、農道を右へ道なりに歩きます。 (10:15) |
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目指す南稜線の鉄塔。この分岐で右へ降り、10鉄塔標識から登ると‥※下山時は、ここを直進し峠から砕石保管地へ歩きました。 |
稜線の鉄塔。昨年この辺りで焚き火による山火事が発生したため注意看板があります。 (10:25) |
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次は9鉄塔標識に従うと老人ホーム白寿苑の裏に出ました。 (10:35) 前の道を左折し100m行くと8鉄塔標識。そこを登降するとこの宮池・下池です。地道を東へ‥ (10:40) |
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大鳥居が建ち、潜ると右写真の分岐に出会い‥ (10:45) |
右へ行けば、赤い鳥居。石柱「姫の宮 奥宮」 いよいよ大縣神社の秘境探索。 |
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犬知る人が少ない奥宮です。前説で姫の宮に奉納された石(←)を思い出して下さい。 祠の上方に高さ2m余りの◇形のご神体石が、石柵で囲まれています。右がズームしたもの。 賢明な方は、意味はおわかりでしょう。 まさに秘境です。 (10:55) |
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ありがたいものを拝見し、元気を貰った男子2人。崩れた東屋を過ぎ、尾根道を辿れば‥ 2山目の相澤山(ソウタクサン)206m山頂。南に切開きから若干の展望。 (11:05) |
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山頂から東へ降ると朽ち果てた家が現れました。覗くと祭壇が作られ、破れ太鼓・倒れた仏像が散らかりいます。台所、下駄箱、便器や陶器のお釜もありました。西側に大岩があり、繰り抜いたような洞窟。入口に「八大龍王神」の木札が掛かります。居住し修行していたのでしょうか。(11:07) |
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洞穴の奥に一段高い祭壇。龍の石碑が安置されていました。伝説の山姥の棲みか、「第1の洞穴」です。 野良人さんは、ある岩壁で別の棲みかを偶然発見し、案内してくれます。 |
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道を降ると5コマ前の大鳥居から延びてきた林道に出ました。本宮山へ歩くと石段参道前の鳥居です。 直進が山頂ですが、右の山腹道へ入ります。『こんな所に道!?』驚く私。 (11:25) |
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始めは下写真のように踏み跡があります。 鳥居から5.6分で野良人さんが、左の斜面を見上げ岩壁を探しています。 『あった!』少し先へ進み、登られそうな所から斜面に取付きました。 登山道から左へ斜行し、木を頼りに10m程の高さを登ります。 高さ5m×幅10mの岩壁があり、上に洞穴が見えました。(TOP写真) 右上写真には、この辺りの地名「本庄」の字。何かいわくがありそうです。 野良人さんが発見した山姥の棲みかと思われる「第2の洞穴」です。 (11:35) |
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大きさは、幅60cm・奥行きは2mくらい。潜らなかったので奥は覗けませんでした。 野良人さんは、伝説を記したHP(道草で紹介)を見ていて、ここを発見した時は驚いたそうです。 そのHPでは龍の彫り物があった「第1の洞穴」を山姥の棲みかではないかとしています。 近在の古老が、そのHP管理人に語った山姥伝説の中で『自分は見たことは無いが この(龍王社の祠)岩場下に大きな洞窟があり、そこに年を経た大蛇が住んでいた』 まさにこの岩場上、170m西に龍王社の祠があります。下山時に寄って確認しましょう。 |
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登山道へ戻り、東へ10分歩くと東尾根登山道に合流し、左折します。20体は数えられる石仏横を過ぎれば‥ |
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3山目の本宮山山頂。大縣大神の荒魂(アラタマ)を祀る本宮社後ろに一等三角点があります。 真清田神社は一の宮、この大縣神社はニの宮、熱田神宮は三の宮。ということは中々な格式です。 (12:20)〜(13:00) |
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崖上「山姥青黄姫竜王社」の祠前に水の枯れない山姥の池。 祠から直線距離720m「第1の洞穴」。東へ170m「第2の洞穴」。 大きさは第1有利、距離は第2。(13:10) |
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山姥伝説の謎は、一層深まりました。 下山ですが、野良人さんの口癖『林道はつまらないでしょ』が出ます。 バリルートに突っ込んだり、ミカン畑を抜けたりただではすみません。 畑斜面の上にタマミズキ、クリスタルな空に鮮やかです。 落ちていた実、始めて見ました。 |
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ミカン畑で10分迷走し、5コマ目の農道分岐(巡視路口)へ戻り直進。農道は終わり、藪へ突進しました。 (14:50) なんだかんだと行けば峠越えができて15分で今は使われていない砕石保管地へ出て『やれやれ』 |
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畑の道を歩き、長者町団地西の駐車地に還ります。秘境と伝説の謎‥里山本宮山は奥が深い&春よ来い。 (15:25) |
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東海岳行 |
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“山姥(やまんば)の棲みか” | ||||
岳行ノートで本宮山を舞台にした山姥伝説は、山頂近くの「山姥青黄姫竜王社」の祠、水の涸れない山姥の池、棲みかの洞穴など遺跡があり興味が尽きません。内容は「里に伝わる伝説」さんが、詳細に表されました。力作で物語の解釈が素晴らしいので粗筋をご紹介させて頂きます。 「山姥物語は、文久九年(1869年)始まり、尾張北部から美濃南部に至る広域に伝承され、話の筋道は幾通りもあります。興味のある話しをお聞かせいたします。尾州羽黒に福富新造と言う郷士がいました。彼は狩が得意で近郷の山野を駆け巡り、鳥や獣を求めて生計を立ててます。 ある日、新造は愛犬を連れ獣を求め、本宮山奥へ分け入っていました。不思議とこの日は獣に出合いません。すでに日はとっぷりと暮れましたが、夜目に利く彼の目は、木間から漏れる月明かりで足元の小石を数えられるほどでした。しばらくして、山頂に通じる崖の上に立ちます。 頭上に煌々と真昼のように月が輝き、足元の谷間に薄い霧が流れていました。新造は、奥の宮へ向けて歩いていましたが、彼の先を走っていた犬が一目散に逃げ戻ってきたのです。新造の足元から離れません。不審に思った彼が、暗い坂の先を透かして見てギョッとしました。 岩上で白髪を振り乱し、目を爛々と光らせ、口が耳まで裂けた鬼女が彼を睨みつけたのです。この頃、山麓では里人がパニックなるような事件が次々と起きていました。突然、子供が行方不明になったり、家畜が居なくなるという噂が蔓延していたのです。 それを知る彼は『村人を苦しめている物の怪か』強弓を引き絞り矢を放ちました。至近距離から名手が射た矢は、鬼女の左眼に深く突き刺さります。『ぎゃ−あ』と叫び鬼女は一目散に逃げていく。煌々と輝いていた月がにわかに掻き曇り、稲妻が走り雷鳴が轟き山は地響きを立てて振動。 新造は剛の者、夜明け待ちました。周りが白々すると大縣神社奥の宮の拝殿前は一面血の海です。彼は点々と地面に続く血の痕を辿ります。血は里まで続き、親友小池与八郎の屋敷門から中に入っているのです。『不思議なこともあるものだ』そう思い新造は案内を請います。 出てきた与八郎に今までの顛末を詳しく話すと、親友は顔色を変え『実は、妻が昨夜から気分が悪いと奥で休んでいる』と言い、奥座敷へ妻の様子を見にいきました。戸を開けると、部屋は一面血の海。肝心の妻の姿は見当たらず、障子に血で書かれた辞世の和歌を見ます。 新造と与八郎は、屋敷内を探しましたが、妻の姿は何処にもいません。ただ屋敷の裏木戸から外へ、黒く変色した血痕が点々と続いています。二人はその痕を辿っていくと、とうとう木曽川縁に着きました。血痕はそこでばったりと消えたのです。与八郎には、二人の男の子が残されました。 それから幾月か過ぎたある日、一人の托鉢僧が与八郎の屋敷門に立ちます。彼は僧を丁寧に屋敷へ招じ『丁度、今日は妻が居なくなった75日目に当たります。どうか一巻の経を手向けて貰えないか』と請い、仏間に家族を集めました。 僧は、『自分は木曾川の向こうにある苧ヶ瀬が原にある寺の僧だが‥』と言い『近頃苧ヶ瀬池に目を矢で射られた大蛇が死んで浮かんだ。その後、池の魚はことごとく片目のつぶれた魚ばかりになってしまった』と話します。それを聞き、与八郎は妻が人間では無いことを悟ったのです。 尾張本宮山に伝わる山姥の話しは、大筋でこのような形態をとって伝えられてきました。山頂直下の岩場にある山姥の池(ここで山姥はお歯黒を染めたり、髪を洗ったりしていたと伝えられている)は、日照が続いても池の水は枯れないと言われている。 私が本宮山を歩き、山頂間近で地元の79歳の老人と世間話をしました。そこの小さな祠が山姥伝説の大蛇を祀った物だと伝えられていると言うのです。祠を見ながら『自分は見たことは無いが、この岩場の下に大きな洞窟があり、そこに年を経た大蛇が住んでいた。 夜、岩を登ってきて祠前の小さな池で水を飲んだり、人に化けて髪を洗ったり、鉄漿(オハグロ)を磨いたりしていたそうだ』 この物語は、何らかの時代的背景があったと考えると意味深くなるから不思議です。 我が国の原住民族は、渡来系民族(大和王朝)の到来と共に平地に居住していたものが次第に山間僻地へ移住をやむなくされた。ついには山の民(山窩)として小数家族単位の集団を作り、ジプシーとなって山間を渡り歩きながら生活をしていたと言います。 生活の糧に木工品、竹細工、炭、毛皮、金属鍛冶等を麓に下り、米などの生活品と交換していたようです。長年少数集団家族を形成すれば、当然親近結婚による弊害は生まれてくることは必定であります。それを避けるため新しい血を導入して集団家族を維持してゆかなければなりません。 小池与八郎の妻は大変美しい女性だった。彼女は、ある時与八郎の前に現れた。昔風のお伽噺ならば、道迷いとか、行き倒れ、病気など何でも可能だ。そして彼は娘の美しさに一目で気に入り妻に迎えた。妻となった女性は、一族の者との連絡を本宮山にしたのだろう。 お年寄りが言った崖下の洞窟で一族の誰かが、洞窟を仮住まいとして繋ぎをしたかも知れない。蛇の化身が髪を洗ったり、鉄漿を磨くのを村人に目撃されたのは、彼らに幻術を使ったとも考えられる。あるときは美しい娘、あるときは髪を振り乱した妖婆、大きな蛇に見せたかもしれない。 時期を経て与八郎の妻は妊娠をした。妻は一人かお腹に宿した子供を連れて家を出て行く。しかし、残された何人かの子供の将来考えれば、子供の母親が「山の民」とはとても言えなかったのではなかろうか。 そこで登場するのが与八郎の親友福富新造だった。二人は考え村人の噂になっていた本宮山に住む山姥を退治したことにすれば辻褄も合う。与八郎の妻の突然の失踪事件を山姥退治の話に摩り替えたのではなかろうか。 本宮山から稜線で繋がる相澤山があり歩いていくと、林の中に朽ち果てた小さな家が建っていました。見ると洞穴があり、以前お年寄りから聞いた山姥が住んでいた洞窟かもしれません。その昔、この洞窟を繋ぎの場所として滞在していたとすれば山姥伝説も現実味を帯びてきます」 このHPの管理人の方は、ブログ「かつ爺の山の歳時記」-尾張地方に伝わる山姥の話-[1], [2〜6], [7〜9]で詳しく2006年7月研究成果を表されました。ブログは2007年5月以降、更新されていません。野良人さんは、自分の発見した「第2の洞穴」をこの方にご案内したいと願っています。 |