師走になると電飾のお飾りをしたお屋敷が見られます。実に楽しい。
会社仲間のMさんに『見に来て!』と誘われました。一家で米国暮らしのとき、このイルミネーションを一式揃えたそうです。
雰囲気が、ちょっと違う。ところで電圧は100Vで合うの‥?
※4/9「追間山」<道草>の帰国子女ネタは、一宮のMさんのお話です。さて19号線の内津峠から県道123号線に入ります。廿原町(ツヅハラ)の集落を下っていき「樺工業所」の横を右折です。
※写真中央の小屋が、目印でその対面に廿原バス停があります。道は、すぐ二股になるので右をとり、しばらく田園の中を直進するとこの変形四差路です。坂を上ります。 溜池(上池)が左下に見え、その端まで行くと駐車場です。小雨が落ちてきたのでカッパの上だけ着ました。
青空がこれっぽっちもありませんが、奥へ歩きます。
(9:00)標識に出合い左折して、山に向かいました。 植林の山腹道を緩やかに登ります。低山らしくよく踏まれた道です。やがて道は右へ曲がり谷の中、斜度が上がり登っていきます。 尾根に上がり右に折れます。あとは尾根道です。 ときどき急登になりますが、すぐ終わってくれるのも低山らしく嬉しい。
3つのベンチの向こうに小さな弥勒菩薩の祠があります。1円玉がてんこ盛りになってました。30分ほどで紅葉が残った「弥勒山」頂上です。珍しいことに小雨が、ミゾレに変わりました。
(9:30)
ゴルフ場の向うは犬山方面
廿原町の背後に多治見市街が霞んでいます。晴天なら奥に「御岳」が見えるはず。
「弥勒山」から尾根を南下します。この道は東海自然歩道で、こんな天気でも歩かれる方が大勢見えます。20名ほどとすれ違いました。
年配の方は『こんにちは』、若い女性は『オハヨーゴザイマス』と挨拶が違う。「大谷山」頂上は少し切り開かれていました。
(9:55)小さいけど格調高い神社があります。 すぐに「道樹山」(ドウズヤマ)頂上です。
(10:15)いったん春日井市の細野方面に下りてみました。大勢の方が東屋で休憩中でした。ミゾレを撮ろうとしましたがノーテクニックなのでだめです。 もう一度山頂に戻り「桧峠」へ下ります。 尾根の急降に東海自然歩道の階段を滑らないように‥。 長く続く丸太の階段から開放されました。最後に鉄階段を下りると「桧峠」です。左へ林道を歩いていきます。
(10:50)この分岐は左へ‥。
(10:55)三の倉地区は、「道樹山」の麓の穏やかな里です。ミゾレは、小雨になりました。 広い県道を歩き飽きたころ、廿原町の用水の脇道に入ります。上池の駐車場まで畑の中、メロンパンをかじりながら戻りました。
(11:40)
廿原町には、県の天然記念物の「廿原のカキ」があります。樹高7.9m、目通り2.45mのカキの大樹です。ちょっと小振りの実がついていました。
「高賀山」登山口発見できず!
「弥勒山」の前日、岐阜の美並の「高賀山」へ行きました。「高賀神社」から以前登ったので、「高畑温泉」からのプランです。ガイドブックに載っていたとおり奥へ進みます。山奥で1時間ほど登山口を探し回りましたが、発見できませんでした。
■那比川を渡り、地道の荒れた宮ケ洞林道へ ■途中の本宮神社 ■高賀山方面、ここで諦め
高畑集落で数人の方に聞いたが不明、違う道を教えてもらう。256号線を少し東進し新宮川を遡る。
■道中の新宮神社 ■峠の八王子神社、ここに駐車し西の作業道より‥ ■高賀山方面
しかし、北から厚い雲が押し寄せ雨が降ってきた。登山は諦める。
美並を周遊することにした。前から気になっていた「日本まん真ん中センター」へ寄る。
その駐車場から北側に見えた「丸山」へ行く。10分ほどで頂上に着き、木製の櫓に登る。眺望は‥
左の「片知山」「南岳」「瓢ケ岳」が奥に連なり、中央に東海北陸自動車道が横切る。「日本まん真ん中センター」の巨大な日時計は、12時を指している。97年36億円の巨費を投じて立てられました。東海北陸自動車道を南下して江南へ帰るとき、いつも不思議なものが目に入る。苅安トンネルと大矢北トンネル間の左手にそれはそそり立つ。それを確かめるため「フォレストパーク373」へ向かった。
■その公園の池は釣堀である。 ■あれだ!謎の建立物 ■運転されないモノレールのレール沿いを上る。
いつも車窓から見て、どこかの新興宗教のシンボルで猛り立つ男子の根をイメージしているのかと思っていた。岐阜の人は、新聞を見てこれが何かを知っているそうです。
この町に残る158体もの円空仏を模しているのだ。美並村のころ、ここが日本の人口重心地になり喜びもひとしおに記念の広告塔として立てられた。2000年12月22日より、その中心は関市の平成(村)に移動している。
あのセンターは「日本まん真ん中の隣町センター」と変えるのだろうか。この巨大像も「元まん真ん中の里」とするのだろうか。そしてこの村は郡上市になり、土台から「村」が削り取られ、そこは落書きだらけになった。
右の写真、南方向に大矢北トンネルが見えている。みなさんもこの自動車道を通るとき、像を見たら20世紀最後の人口重心地の悲しい話を思い出して涙してください。